sよ》つて歩いて行つた。
海は低い砂山の向うに一面に灰色に曇つてゐた。その又砂山にはブランコのないブランコ台が一つ突つ立つてゐた。僕はこのブランコ台を眺め、忽《たちま》ち絞首台を思ひ出した。実際又ブランコ台の上には鴉が二三羽とまつてゐた。鴉は皆僕を見ても、飛び立つ気色《けしき》さへ示さなかつた。のみならずまん中にとまつてゐた鴉は大きい嘴《くちばし》を空へ挙げながら、確かに四たび声を出した。
僕は芝の枯れた砂土手に沿ひ、別荘の多い小みちを曲ることにした。この小みちの右側にはやはり高い松の中に二階のある木造の西洋家屋が一軒白じらと立つてゐる筈だつた。(僕の親友はこの家のことを「春のゐる家」と称してゐた。)が、この家の前へ通りかかると、そこにはコンクリイトの土台の上にバス・タツブが一つあるだけだつた。火事――僕はすぐにかう考へ、そちらを見ないやうに歩いて行つた。すると自転車に乗つた男が一人まつすぐに向うから近づき出した。彼は焦茶《こげちや》いろの鳥打ち帽をかぶり、妙にぢつと目を据ゑたまま、ハンドルの上へ身をかがめてゐた。僕はふと彼の顔に姉の夫の顔を感じ、彼の目の前へ来ないうちに横の小みちへはひることにした。しかしこの小みちのまん中にも腐つた※[#「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1−94−84]鼠《もぐらもち》の死骸が一つ腹を上にして転がつてゐた。
何ものかの僕を狙つてゐることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を遮《さへぎ》り出した。僕は愈《いよいよ》最後の時の近づいたことを恐れながら、頸すぢをまつ直《すぐ》にして歩いて行つた。歯車は数の殖えるのにつれ、だんだん急にまはりはじめた。同時に又右の松林はひつそりと枝をかはしたまま、丁度細かい切子《きりこ》硝子を透《す》かして見るやうになりはじめた。僕は動悸の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まらうとした。けれども誰かに押されるやうに立ち止まることさへ容易ではなかつた。……
三十分ばかりたつた後、僕は僕の二階に仰向けになり、ぢつと目をつぶつたまま、烈しい頭痛をこらへてゐた。すると僕の※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》の裏に銀色の羽根を鱗《うろこ》のやうに畳んだ翼が一つ見えはじめた。それは実際網膜の上にはつきりと映つてゐるものだつた。僕は目をあいて天井を見上げ、勿論何も天井にはそんなもののないことを確めた上、もう一度目をつぶることにした。しかしやはり銀色の翼はちやんと暗い中に映つてゐた。僕はふとこの間乗つた自動車のラデイエエタア・キヤツプにも翼のついてゐたことを思ひ出した。……
そこへ誰か梯子段を慌《あわただ》しく昇つて来たかと思ふと、すぐに又ばたばた駈け下りて行つた。僕はその誰かの妻だつたことを知り、驚いて体を起すが早いか、丁度梯子段の前にある、薄暗い茶の間へ顔を出した。すると妻は突つ伏したまま、息切れをこらへてゐると見え、絶えず肩を震はしてゐた。
「どうした?」
「いえ、どうもしないのです。……」
妻はやつと顔を擡《もた》げ、無理に微笑して話しつづけた。
「どうもした訣《わけ》ではないのですけれどもね、唯何だかお父さんが死んでしまひさうな気がしたものですから。……」
それは僕の一生の中でも最も恐しい経験だつた。――僕はもうこの先を書きつづける力を持つてゐない。かう云ふ気もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である。誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?
[#地から2字上げ](昭和二年、遺稿)
底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年4月27日公開
2004年3月14日修正
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