僕はそこを歩いてゐるうちにふと松林を思ひ出した。のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを?――と云ふのは絶えずまはつてゐる半透明の歯車だつた。僕はかう云ふ経験を前にも何度か持ち合せてゐた。歯車は次第に数を殖《ふ》やし、半ば僕の視野を塞《ふさ》いでしまふ、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え失《う》せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、――それはいつも同じことだつた。眼科の医者はこの錯覚(?)の為に度々僕に節煙を命じた。しかしかう云ふ歯車は僕の煙草に親まない二十《はたち》前にも見えないことはなかつた。僕は又はじまつたなと思ひ、左の目の視力をためす為に片手に右の目を塞いで見た。左の目は果して何ともなかつた。しかし右の目の瞼《まぶた》の裏には歯車が幾つもまはつてゐた。僕は右側のビルデイングの次第に消えてしまふのを見ながら、せつせと往来を歩いて行つた。
ホテルの玄関へはひつた時には歯車ももう消え失せてゐた。が、頭痛はまだ残つてゐた。僕は外套や帽子を預ける次手《ついで》に部屋を一つとつて貰ふことにした。それから或雑誌社へ電話をかけて金のことを相談した。
結婚披露式の晩餐《ばんさん》はとうに始まつてゐたらしかつた。僕はテエブルの隅に坐り、ナイフやフオオクを動かし出した。正面の新郎や新婦をはじめ、白い凹字《あふじ》形のテエブルに就いた五十人あまりの人びとは勿論いづれも陽気だつた。が、僕の心もちは明るい電燈の光の下にだんだん憂欝になるばかりだつた。僕はこの心もちを遁《のが》れる為に隣にゐた客に話しかけた。彼は丁度獅子のやうに白い頬髯《ほほひげ》を伸ばした老人だつた。のみならず僕も名を知つてゐた或名高い漢学者だつた。従つて又僕等の話はいつか古典の上へ落ちて行つた。
「麒麟《きりん》はつまり一角獣《いつかくじう》ですね。それから鳳凰《ほうわう》もフエニツクスと云ふ鳥の、……」
この名高い漢学者はかう云ふ僕の話にも興味を感じてゐるらしかつた。僕は機械的にしやべつてゐるうちにだんだん病的な破壊慾を感じ、堯舜《げうしゆん》を架空の人物にしたのは勿論、「春秋《しゆんじう》」の著者もずつと後の漢代の人だつたことを話し出した。するとこの漢学者は露骨に不快な表情を示し、少しも僕の顔を見ずに殆ど虎の唸るやうに僕の話を截《き》り離した。
「もし堯舜もゐなかつたとすれば、
前へ
次へ
全28ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング