、。あれは気違ひぢやないのですよ。莫迦になつてしまつたのですよ。」
「早発性|痴呆《ちはう》と云ふやつですね。僕はあいつを見る度に気味が悪くつてたまりません。あいつはこの間もどう云ふ量見か、馬頭観世音《ばとうくわんぜおん》の前にお時宜《じぎ》をしてゐました。」
「気味が悪くなるなんて、……もつと強くならなければ駄目ですよ。」
「兄さんは僕などよりも強いのだけれども、――」
 無精髭《ぶしやうひげ》を伸ばした妻の弟も寝床の上に起き直つたまま、いつもの通り遠慮勝ちに僕等の話に加はり出した。
「強い中に弱いところもあるから。……」
「おやおや、それは困りましたね。」
 僕はかう言つた妻の母を見、苦笑しない訣《わけ》には行かなかつた。すると弟も微笑しながら、遠い垣の外の松林を眺め、何かうつとりと話しつづけた。(この若い病後の弟は時々僕には肉体を脱した精神そのもののやうに見えるのだつた。)
「妙に人間離れをしてゐるかと思へば、人間的欲望もずゐぶん烈しいし、……」
「善人かと思へば、悪人でもあるしさ。」
「いや、善悪と云ふよりも何かもつと反対なものが、……」
「ぢや大人の中に子供もあるのだらう。」
「さうでもない。僕にははつきりと言へないけれど、……電気の両極に似てゐるのかな。何しろ反対なものを一しよに持つてゐる。」
 そこへ僕等を驚かしたのは烈しい飛行機の響きだつた。僕は思はず空を見上げ、松の梢に触れないばかりに舞ひ上つた飛行機を発見した。それは翼を黄いろに塗つた、珍らしい単葉の飛行機だつた。鶏や犬はこの響きに驚き、それぞれ八方へ逃げまはつた。殊に犬は吠え立てながら、尾を捲《ま》いて縁の下へはひつてしまつた。
「あの飛行機は落ちはしないか?」
「大丈夫。……兄さんは飛行機病と云ふ病気を知つてゐる?」
 僕は巻煙草に火をつけながら、「いや」と云ふ代りに頭を振つた。
「ああ云ふ飛行機に乗つてゐる人は高空の空気ばかり吸つてゐるものだから、だんだんこの地面の上の空気に堪へられないやうになつてしまふのだつて。……」
 妻の母の家を後ろにした後、僕は枝一つ動かさない松林の中を歩きながら、ぢりぢり憂欝になつて行つた。なぜあの飛行機はほかへ行かずに僕の頭の上を通つたのであらう? なぜ又あのホテルは巻煙草のエエア・シツプばかり売つてゐたのであらう? 僕はいろいろの疑問に苦しみ、人気のない道を選
前へ 次へ
全28ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング