ニうとう海中に溺死してゐた。マドリツドへ、リオへ、サマルカンドへ、――僕はかう云ふ僕の夢を嘲笑《あざわら》はない訣《わけ》には行かなかつた。同時に又復讐の神に追はれたオレステスを考へない訣にも行かなかつた。
 僕は運河に沿ひながら、暗い往来を歩いて行つた。そのうちに或郊外にある養父母の家を思ひ出した。養父母は勿論僕の帰るのを待ち暮らしてゐるのに違ひなかつた。恐らくは僕の子供たちも、――しかし僕はそこへ帰ると、おのづから僕を束縛してしまふ或力を恐れずにはゐられなかつた。運河は波立つた水の上に達磨船《だるまぶね》を一艘横づけにしてゐた。その又達磨船は船の底から薄い光を洩らしてゐた。そこにも何人かの男女の家族は生活してゐるのに違ひなかつた。やはり愛し合ふ為に憎み合ひながら。……が、僕はもう一度戦闘的精神を呼び起し、ウイスキイの酔ひを感じたまま、前のホテルへ帰ることにした。
 僕は又机に向ひ、「メリメエの書簡集」を読みつづけた。それは又いつの間にか僕に生活力を与へてゐた。しかし僕は晩年のメリメエの新教徒になつてゐたことを知ると、俄《には》かに仮面のかげにあるメリメエの顔を感じ出した。彼も亦やはり僕等のやうに暗《やみ》の中を歩いてゐる一人だつた。暗の中を?――「暗夜行路」はかう云ふ僕には恐しい本に変りはじめた。僕は憂欝を忘れる為に「アナトオル・フランスの対話集」を読みはじめた。が、この近代の牧羊神もやはり十字架を荷《にな》つてゐた。……
 一時間ばかりたつた後、給仕は僕に一束の郵便物を渡しに顔を出した。それ等の一つはライプツイツヒの本屋から僕に「近代の日本の女」と云ふ小論文を書けと云ふものだつた。なぜ彼等は特に[#「特に」に傍点]僕にかう云ふ小論文を書かせるのであらう? のみならずこの英語の手紙は「我々は丁度日本画のやうに黒と白の外に色彩のない女の肖像画でも満足である」と云ふ肉筆のP・Sを加へてゐた。僕はかう云ふ一行に Black and White と云ふウイスキイの名を思ひ出し、ずたずたにこの手紙を破つてしまつた。それから今度は手当り次第に一つの手紙の封を切り、黄いろい書簡箋《しよかんせん》に目を通した。この手紙を書いたのは僕の知らない青年だつた。しかし二三行も読まないうちに「あなたの『地獄変』は……」と云ふ言葉は僕を苛立《いらだ》たせずには措《お》かなかつた。三番目に封
前へ 次へ
全28ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング