のかも知れなかつた。若《も》し又僕に来たとしても、――僕は鏡に後ろを向け、窓の前の机へ帰つて行つた。
四角に凝灰岩を組んだ窓は枯芝や池を覗《のぞ》かせてゐた。僕はこの庭を眺めながら、遠い松林の中に焼いた何冊かのノオト・ブツクや未完成の戯曲を思ひ出した。それからペンをとり上げると、もう一度新らしい小説を書きはじめた。
五 赤光
日の光は僕を苦しめ出した。僕は実際|※[#「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1−94−84]鼠《もぐらもち》のやうに窓の前へカアテンをおろし、昼間も電燈をともしたまま、せつせと前の小説をつづけて行つた。それから仕事に疲れると、テエヌの英吉利《イギリス》文学史をひろげ、詩人たちの生涯に目を通した。彼等はいづれも不幸だつた。エリザベス朝の巨人たちさへ、――一代の学者だつたベン・ジヨンソンさへ彼の足の親指の上に羅馬《ロオマ》とカルセエヂとの軍勢の戦ひを始めるのを眺めたほど神経的疲労に陥つてゐた。僕はかう云ふ彼等の不幸に残酷な悪意に充ち満ちた歓びを感じずにはゐられなかつた。
或東かぜの強い夜、(それは僕には善い徴《しるし》だつた。)僕は地下室を抜けて往来へ出、或老人を尋ねることにした。彼は或聖書会社の屋根裏にたつた一人小使ひをしながら、祈祷や読書に精進《しやうじん》してゐた。僕等は火鉢に手をかざしながら、壁にかけた十字架の下にいろいろのことを話し合つた。なぜ僕の母は発狂したか? なぜ僕の父の事業は失敗したか? なぜ又僕は罰せられたか?――それ等の秘密を知つてゐる彼は妙に厳《おごそ》かな微笑を浮かべ、いつまでも僕の相手をした。のみならず時々短い言葉に人生のカリカテユアを描いたりした。僕はこの屋根裏の隠者を尊敬しない訣《わけ》には行かなかつた。しかし彼と話してゐるうちに彼も亦親和力の為に動かされてゐることを発見した。――
「その植木屋の娘と云ふのは器量も善いし、気立ても善いし、――それはわたしに優しくしてくれるのです。」
「いくつ?」
「ことしで十八です。」
それは彼には父らしい愛であるかも知れなかつた。しかし僕は彼の目の中に情熱を感じずにはゐられなかつた。のみならず彼の勧めた林檎《りんご》はいつか黄ばんだ皮の上へ一角獣の姿を現してゐた。(僕は木目《もくめ》や珈琲《コオヒイ》茶碗の亀裂《ひび》に度たび神話的動物を発見してゐた。)一
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