ゐた。――「僕は芸術的良心を始め、どう云ふ良心も持つてゐない。僕の持つてゐるのは神経だけである。」……
 姉は三人の子供たちと一しよに露地の奥のバラツクに避難してゐた。褐色の紙を貼つたバラツクの中は外よりも寒いくらゐだつた。僕等は火鉢に手をかざしながら、いろいろのことを話し合つた。体の逞《たくま》しい姉の夫は人一倍痩せ細つた僕を本能的に軽蔑してゐた。のみならず僕の作品の不道徳であることを公言してゐた。僕はいつも冷やかにかう云ふ彼を見おろしたまま、一度も打ちとけて話したことはなかつた。しかし姉と話してゐるうちにだんだん彼も僕のやうに地獄に堕《お》ちてゐたことを悟り出した。彼は現に寝台車の中に幽霊を見たとか云ふことだつた。が、僕は巻煙草に火をつけ、努めて金のことばかり話しつづけた。
「何しろかう云ふ際だしするから、何も彼《か》も売つてしまはうと思ふの。」
「それはさうだ。タイプライタアなどは幾らかになるだらう。」
「ええ、それから画などもあるし。」
「次手《ついで》にNさん(姉の夫)の肖像画も売るか? しかしあれは……」
 僕はバラツクの壁にかけた、額縁のない一枚のコンテ画を見ると、迂濶《うくわつ》に常談も言はれないのを感じた。轢死《れきし》した彼は汽車の為に顔もすつかり肉塊になり、僅かに唯|口髭《くちひげ》だけ残つてゐたとか云ふことだつた。この話は勿論話自身も薄気味悪いのに違ひなかつた。しかし彼の肖像画はどこも完全に描いてあるものの、口髭だけはなぜかぼんやりしてゐた。僕は光線の加減かと思ひ、この一枚のコンテ画をいろいろの位置から眺めるやうにした。
「何をしてゐるの?」
「何でもないよ。……唯あの肖像画は口のまはりだけ、……」
 姉はちよつと振り返りながら、何も気づかないやうに返事をした。
「髭だけ妙に薄いやうでせう。」
 僕の見たものは錯覚ではなかつた。しかし錯覚ではないとすれば、――僕は午飯《ひるめし》の世話にならないうちに姉の家を出ることにした。
「まあ、善《い》いでせう。」
「又あしたでも、……けふは青山まで出かけるのだから。」
「ああ、あすこ? まだ体の具合は悪いの?」
「やつぱり薬ばかり嚥《の》んでゐる。催眠薬だけでも大変だよ。ヴエロナアル、ノイロナアル、トリオナアル、ヌマアル……」
 三十分ばかりたつた後、僕は或ビルデイングへはひり、昇降機《リフト》に乗つ
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