由なる御家法も候ものかなと笑はれしよしに御座候。なれども亦裏には裏と申すことも有之、さほど不自由は致し居らず候。
六、少斎石見の両人、霜と申す女房を召し出され、こまごまと申され候は、この度急に治部少より、東へお立ちなされ候大名衆の人質《ひとじち》をとられ候よし、専《もつぱ》ら風聞《ふうぶん》仕り候へども、如何《いかが》仕るべく候や、秀林院様のお思召《おぼしめ》しのほども承りたしとのことに有之候。その節、霜のわたくしに申し候は、「お留守居役の衆も手ぬるいことでおりやる。そのやうなことは澄見からをとつひの内に言上されたものを。やれやれお取次御苦労な」とのことに御座候。尤もこれは珍しきことにても無之、いつも世上の噂などはお留守居役の耳よりも、わたくしどもの耳へ先に入り候、少斎は唯律義なる老人、石見は武道一偏のわやく[#「わやく」に傍点]人《にん》に候間、さもあるべき儀とは存じ候へども、兎角たび重なり候へば、わたくしどもを始め奥のものは「世上に隠れない」と申す代りに「お留守居役さへ知つておりやる」と申すことに相成り居り候。
七、霜は即ちその旨《むね》を秀林院様へ申し上げ候ところ、秀林院様の御意なされ候は、治部少と三斎様とは兼ねがねおん仲|悪《あ》しく候まま、定めし人質のとりはじめにはこの方へ参るならん、万一さもなき節は他家の並《なみ》もあるべきか、もし又一番に申し来り候はば、御返答|如何《いかが》遊ばされ候べきや。少斎石見の両人、分別致し候やうにとのことに御座候。少斎石見の両人も分別致しかね候へばこそ、御意をも伺ひし次第に候へば、秀林院様のおん言葉は見当違ひには御座候へども霜も御主人の御威光には勝たれず、その通り両人へ申し渡し候。霜のお台所へ下がり候後、秀林院様は又また「まりや」様の画像の前に「のす、のす」をお唱へ遊ばされ、梅と申す新参の女房、思はず笑ひ出し候へば、以ての外のことなりとさんざん御折檻《ごせつかん》を蒙《かうむ》り候。
八、少斎石見の両人は秀林院様の御意を伺ひ、いづれも当惑仕り候へども、やがて霜に申され候は、治部少かたより右の次第を申し来り候とも、与一郎様与五郎様(忠興の子、興秋《おきあき》)のお二かたは東へお立ちなされたり、内記様(同上、忠利《ただとし》)も亦唯今は江戸人質に御座候間、人質に出で候はん人、当お屋敷には一人も無之《これなく》候へば、所詮は出し申すことなるまじくと返答仕るべし、なほ又是非ともと申し候はば、田辺の城(舞鶴)へ申し遣はし、幽斎《いうさい》様(忠興の父、藤孝《ふぢたか》)より御指図を仰ぎ候まま、それ迄待ち候へと挨拶仕るべし、この儀は如何候べきと申され候。秀林院様の仰せには分別致し候やうにと申し渡され候へども、少斎石見両人の言葉に毛すぢほどの分別も有之《これあり》候や。まづ老功の侍《さむらひ》とは申さず、人並みの分別ある侍ならば、たとひ田辺の城へなりとも秀林院様をお落し申し、その次には又わたくしどもにも思ひ思ひに姿を隠させ、最後に両人のお留守居役だけ覚悟仕るべき場合に御座候。然るに人質に出で候はん人、一人も無之候へば、出し申すことなるまじくなどとは一も二もなき喧嘩腰にて、側杖《そばづゑ》を打たるるわたくしどもこそ迷惑千万に存じ候。
九、霜は又右の次第を秀林院様へ申し上げ候ところ、秀林院様は御返事も遊ばされず、唯お口のうちに「のす、のす」とのみお唱へなされ居り候へども、漸《やうや》くさりげなきおん気色《けしき》に直られ、一段|然《しか》るべしと御意なされ候。如何《いか》さままだお留守居役よりお落し奉らんとも申されぬうちに、落せと仰せられ候|訣《わけ》には参り兼ね候儀ゆゑ、さだめし御心中には少斎石見の無分別なる申し条をお恨み遊ばされしことと存じ上げ候。且《かつ》は御機嫌もこの時より引きつづき甚だよろしからず、ことごとにわたくしどもをお叱りなされ、又お叱りなさるる度に「えそぽ物語」とやらをお読み聞かせ下され、誰はこの蛙《かはづ》、彼はこの狼などと仰せられ候間、みなみな人質に参るよりも難渋なる思ひを致し候。殊にわたくしは蝸牛《かたつむり》にも、鴉《からす》にも、豚にも、亀の子にも、棕梠《しゆろ》にも、犬にも、蝮《まむし》にも、野牛にも、病人にも似かよひ候よし、くやしきお小言を蒙り候こと、末代迄も忘れ難く候。
十、十四日には又|澄見《ちようこん》参り、人質の儀を申し出《いだ》し候。秀林院様御意なされ候は、三斎様のお許し無之《これなき》うちは、如何やうのこと候とも、人質に出で候儀には同心|仕《つかまつ》るまじくと仰せられ候。然れば澄見申し候は、成程三斎様の御意見を重んぜられ候こと、尤《もつと》も賢女には候べし。なれどもこれは細川家のおん大事につき、たとひ城内へはお出なされずとも、お隣屋敷浮田中納言様迄
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