に「はらいそ」の荘厳《しやうごん》を拝し候べしと仰せられ候。然ればわたくしどもは感涙に咽《むせ》び、みなみな即座に切支丹の御宗門に帰依し奉る旨、同音に申し上げ候間、秀林院様には御機嫌よろしく、これにて黄泉路の障りも無之、安堵《あんど》いたし候まま、伴は無用と御意なされ候。
十九、なほ又秀林院様は三斎様与一郎様へお書置きをなされ、二通とも霜へお渡し遊ばされ候。その後京の「ぐれごり屋」と申す伴天連《ばてれん》へも何やら横文字のお書置きをなされ、これはわたくしへお渡し遊ばされ候、この横文字のお書置きは五六行には候へども、秀林院様のお書き遊ばされ候には一刻あまりもおかかりなされ候。これも序《ついで》ゆゑ申し上げ候へども、このお書置きを「ぐれごり屋」へ渡し候節、日本人の「いるまん」(役僧)一人、厳かに申し候は、総じて自害は切支丹宗門の禁ずるところに御座候間、秀林院様も「はらいそ」へはお昇り遊ばさるることかなふまじく候、但し「みさ」と申す祈祷《きたう》を奉られ候はば、その功徳《くどく》広大にして、悪趣を免れさせ候べし。もし「みさ」を修せられ候はんには、銀一枚賜り候へとのことに御座候。
二十、打手のかかり候は亥《ゐ》の刻頃と存じ候。お屋敷の表は河北石見預り、裏の御門は稲富伊賀預り、奥は小笠原少斎預りと定まり居り候。敵寄すると承り候へば、秀林院様は梅を遣はされ、与一郎様の奥様をお召し遊ばされ候へども、はやいづこへお落ちなされ候や、お部屋は藻《も》ぬけのからと相成り居り候よし、わたくしどもみなみなおん悦び申し上げ候。なれども秀林院様にはおん憤り少からず、わたくしどもに御意なされ候は、生まれては山崎の合戦に太閤《たいかふ》殿下と天下を争はれし惟任《これたふ》将軍光秀を父とたのみ、死しては「はらいそ」におはします「まりや」様を母とたのまんわれらに、末期《まつご》の恥辱を与へ候こと、かへすがへすも奇怪なる平大名の娘と仰せられ候。その節のおんありさまのはしたなさ、今も目に見ゆる心地致し候。
二十一、程なく小笠原少斎、紺糸の具足《ぐそく》に小薙刀《こなぎなた》を提《ひつさ》げ、お次迄|御介錯《ごかいしやく》に参られ候。未だ抜け歯の痛み甚しく候よし、左の頬先|腫《は》れ上られ、武者ぶりも聊《いささか》はかなげに見うけ候。少斎申され候は、お居間の敷居を越え候はんも恐れ多く候間、敷居越しに御介錯仕り、追ひ腹切らんとのことに御座候。御先途見とどけの役は霜とわたくしとに定まり居り候へば、この頃にはみなみないづこへか落ち失せ、わたくしどもばかり残り居り候。秀林院様は少斎を御覧《ごらう》ぜられ、介錯大儀と仰せられ候。細川家へお輿入《こしい》れ遊ばされ候以来、御夫婦|御親子《ごしんし》のかたがたは格別に候へども、男の顔を御覧遊ばされ候は今日この少斎をはじめと致され候よし、後に霜より承り及び候。少斎はお次に両手をつかれ、御最期の時参り候と申し上げ候。尤も片頬腫れ上られ居り候へば、言舌《ごんぜつ》も甚ださだかならず、秀林院様にも御当惑遊ばされ、大声に申候へと御意なされ候。
二十二、その時誰やら若き衆一人、萌葱糸《もえぎいと》の具足に大太刀を提げ、お次へ駈けつけ候や否や、稲富伊賀逆心仕り敵は裏門よりなだれ入り候間、速に御覚悟なされたくと申され候。秀林院様は右のおん手にお髪をきりきりと巻き上げられ、御覚悟の体《てい》に見上げ候へども、若き衆の姿を御覧遊ばされ、羞《はづか》しと思召され候や、忽《たちま》ちおん顔を耳の根迄赤あかとお染め遊ばされ候。わたくし一生にこの時ほど、秀林院様の御器量をお美しく存じ上げ候こと、一度も覚え申さず候。
二十三、わたくしどもの御門を出で候節はもはやお屋敷に火の手あがり、御門の外にも人々大勢、火の光の中に集まり居り候。尤もこれは敵にては無之《これなく》、火事を見に集まりたる人々のよし、又敵は伊賀を引きつれ、御最期以前に引きあげ候よし、いづれも後に承り申し候。まづは秀林院様お果てなされ候次第のこと、あらあら申し上げたる通りに御座候。
[#地から2字上げ](大正十二年十二月)
底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月16日公開
2004年2月17日修正
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