殻垣《からたちがき》に沿った道を歩いていた。
 道はもう暮れかかっていた。のみならず道に敷いた石炭殻も霧雨《きりさめ》か露かに濡《ぬ》れ透《とお》っていた。僕はまだ余憤《よふん》を感じたまま、出来るだけ足早に歩いて行った。が、いくら歩いて行っても、枳殻垣《からたちがき》はやはり僕の行手《ゆくて》に長ながとつづいているばかりだった。
 僕はおのずから目を覚ました。妻や赤子は不相変《あいかわらず》静かに寝入っているらしかった。けれども夜はもう白みかけたと見え、妙にしんみりした蝉《せみ》の声がどこか遠い木に澄み渡っていた。僕はその声を聞きながら、あした(実はきょう)頭の疲れるのを惧《おそ》れ、もう一度早く眠ろうとした。が、容易に眠られないばかりか、はっきり今の夢を思い出した。夢の中の妻は気の毒にもうまらない役まわりを勤《つと》めている。Sは実際でもああかも知れない。僕も、――僕は妻に対しては恐しい利己主義《りこしゅぎ》者になっている。殊に僕自身を夢の中の僕と同一人格と考えれば、一層恐しい利己主義者になっている。しかも僕自身は夢の中の僕と必《かならず》しも同じでないことはない。僕は一つには睡眠を得るために、また一つには病的に良心の昂進《こうしん》するのを避けるために〇・五|瓦《グラム》のアダリン錠を嚥《の》み、昏々とした眠りに沈んでしまった。……
[#地から1字上げ](大正十四年九月)



底本:「芥川龍之介全集6」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年3月24日第1刷発行
   1993(平成5)年2月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年2月1日公開
2004年3月9日修正
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