かせると、今度はかう心の中に一生懸命の叫声を挙げた。
「平中! 平中! お前は何と云ふ意気地なしだ? あの雨夜を忘れたのか? 侍従は今もお前の恋を嘲笑つてゐるかも知れないのだぞ。生きろ! 立派に生きて見せろ! 侍従の糞《まり》を見さへすれば、必《かならず》お前は勝ち誇れるのだ。……」
平中は殆《ほとんど》気違ひのやうに、とうとう筐の蓋を取つた。筐には薄い香色の水が、たつぷり半分程はひつた中に、これは濃い香色の物が、二つ三つ底へ沈んでゐる。と思ふと夢のやうに、丁子《ちやうじ》の匂が鼻を打つた。これが侍従の糞であらうか? いや、吉祥天女にしてもこんな糞はする筈がない。平中は眉をひそめながら、一番上に浮いてゐた、二寸程の物をつまみ上げた。さうして髭にも触れる位、何度も匂を嗅ぎ直して見た。匂は確かに紛《まぎ》れもない、飛び切りの沈《ぢん》の匂である。
「これはどうだ! この水もやはり匂ふやうだが、――」
平中は筐を傾けながら、そつと水を啜つて見た。水も丁子《ちやうじ》を煮返した、上澄みの汁に相違ない。
「するとこいつも香木かな?」
平中は今つまみ上げた、二寸程の物を噛みしめて見た。すると歯にも透《とほ》る位、苦味の交つた甘さがある。その上彼の口の中には、急《たちま》ち橘の花よりも涼しい、微妙な匂が一ぱいになつた。侍従は何処から推量したか、平中のたくみを破る為に、香細工の糞をつくつたのである。
「侍従! お前は平中を殺したぞ!」
平中はかう呻《うめ》きながら、ばたりと蒔絵の筐を落した。さうして其処の床の上へ、仏倒《ほとけだふ》しに倒れてしまつた。その半死の瞳の中には、紫摩金《しまごん》の円光にとりまかれた儘、※[#「女+展」、180−下−14]然《てんぜん》と彼にほほ笑みかけた侍従の姿を浮べながら。……
[#地から2字上げ](大正十年九月)
底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月19日公開
2004年3月1日修正
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