うじんざつし》を出版する事、当世の流行の一つなるべし。されど紙代印刷費用共に甚《はなはだ》廉《れん》ならざる今日《こんにち》、経営に苦しむもの亦《また》少からず。伝へ聞く、ル・メルキウル・ド・フランスが初号を市《いち》に出《いだ》せし時も、元《もと》より文壇不遇の士の黄白《くわうはく》に裕《ゆたか》なる筈なければ、やむ無く一株《ひとかぶ》六十|法《フラン》の債券を同人に募りしかど、その唯一《ゆゐいち》の大《おほ》株主たるジユウル・ルナアルが持株すら僅々《きんきん》四株に過ぎざりしとぞ。しかもその同人の中には、アルベエル・サマンの如き、レミ・ド・グルモンの如き、一代の才人多かりしを思へば、当世流行の同人雑誌と雖《いへど》も、資金の甚《はなはだ》潤沢《じゆんたく》ならざるを憾《うら》むべき理由なきに似たり。唯、得難きは当年のル・メルキウルに、象徴主義の大旆《たいはい》を樹《た》てしが如き英霊底《えいれいてい》の漢《かん》一ダアスのみ。(一月二十六日)

     雅号

 日本の作家今は多く雅号《ががう》を用ひず。文壇の新人旧人を分つ、殆《ほとんど》雅号の有無を以てすれば足るが如し。されば前《さき》に雅号ありしも捨てて用ひざるさへ少からず。雅号の薄命なるも亦《また》甚しいかな。露西亜《ロシア》の作家にオシツプ・デイモフと云ふものあり。チエホフが短篇「蝗《いなご》」の主人公と同名なりしと覚ゆ。デイモフはその名を借りて雅号となせるにや。博覧の士の示教《しけう》を得れば幸甚《かうじん》なり。(一月二十八日)

     青楼

 仏蘭西《フランス》語に妓楼《ぎろう》を la maison verte と云ふは、ゴンクウルが造語なりとぞ。蓋《けだ》し青楼美人合せの名を翻訳せしに出づるなるべし。ゴンクウルが日記に云ふ。「この年(千八百八十二年)わが病的なる日本美術品|蒐集《しうしふ》の為に費《つひや》せし金額、実に三千|法《フラン》に達したり。これわが収入の全部にして、懐中時計を購《あがな》ふべき四十|法《フラン》の残余さへ止《とど》めず」と。又云ふ。「数日以来(千八百七十六年)日本に赴《おもむ》かばやと思ふ心|止《とど》め難し。されどこの旅行はわが日頃の蒐集《しうしふ》癖を充《みた》さんが為のみにはあらず。われは夢む、一巻の著述を成さん事を。題は『日本の一年』。日記の如き体裁。叙述よりも情調。かくせば比類なき好文字《かうもんじ》を得べし。唯、わがこの老《らう》を如何《いかん》」と。日本の版画を愛し、日本の古玩《こぐわん》を愛し、更に又日本の菊花を愛せる伶※[#「にんべん+娉のつくり」、71−上−5]《れいへい》孤寂《こじやく》のゴンクウルを想《おも》へば、青楼の一語短なりと雖《いへど》も、無限の情味なき能《あた》はざるべし。(一月二十九日)

     言語

 言語は元《もと》より多端なり。山《さん》と云ひ、嶽《がく》と云ひ、峯《ほう》と云ひ、巒《らん》と云ふ。義の同うして字の異なるを用ふれば、即ち意を隠微の間《かん》に偶《ぐう》するを得べし。大食《おほぐら》ひを大松《だいまつ》と云ひ差出者《さしでもの》を左兵衛次《さへゑじ》と云ふ。聞くものにして江戸つこならざらんか、面罵せらるるも猶《なほ》恬然《てんぜん》たらん。試《こころみ》に思へ、品蕭《ひんせう》の如き、後庭花《こうていくわ》の如き、倒澆燭《たうげうしよく》の如き、金瓶梅《きんぺいばい》肉蒲団《にくぶとん》中の語彙《ごゐ》を借りて一篇の小説を作らん時、善くその淫褻《いんせつ》俗を壊《やぶ》るを看破すべき検閲官の数《すう》何人なるかを。(一月三十一日)

     誤訳

 カアライルが独逸《ドイツ》文の翻訳に誤訳指摘を試みしはデ・クインシイがさかしらなり。されどチエルシイの哲人はこの後進の鬼才を遇する事|
反《かへ》つて甚《はなはだ》篤《あつ》かりしかば、デ・クインシイも亦《また》その襟懐に服して百年の心交を結びたりと云ふ。カアライルが誤訳の如何《いか》なりしかは知らず。予が知れる誤訳の最も滑稽なるはマドンナを奥さんと訳せるものなり。訳者は楽園の門を守る下僕天使にもあらざるものを。(二月一日)

     戯訓

 往年|久米正雄《くめまさを》氏シヨウを訓して笑迂《せうう》と云ひ、イブセンを訓して燻仙《いぶせん》と云ひ、メエテルリンクを訓して瞑照燐火《めいてるりんくわ》と云ひ、チエホフを訓して知慧豊富《ちゑほうふ》と云ふ。戯訓《ぎくん》と称して可ならん乎《か》。二人比丘尼《ににんびくに》の作者|鈴木正三《すずきしやうざう》、その耶蘇教《やそけう》弁斥《べんせき》の書に題して破鬼理死端《はきりしたん》と云ふ。亦《また》悪意ある戯訓の一例たるべし。(二月二日)

     俳句

 
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