へば生命水の河の詩に「路旁生命水清流《ろばうのせいめいみづきよくながる》、天路行人喜暫留《てんろのかうじんよろこびしばらくとどまる》、百菓奇花供悦楽《ひやつくわきくわえつらくにきようす》、吾儕幸得此埔遊《わがさいさいはひにえたりこのほのいう》」と云ふが如し。この種の興味を云々するは恐らく傍人の嗤笑を買ふ所にならん。然れども思へ、獄中のオスカア・ワイルドが行往坐臥に侶としたるも、こちたき希臘語《ギリシヤご》の聖書なりしを。(一月二十一日)

     三馬

 二三子集り議して曰、今人の眼を以て古人の心を描く事、自然主義以後の文壇に最も目ざましき傾向なるべしと。一老人あり。傍より言を挾《はさ》みて曰、式亭三馬《しきていさんば》が大千世界楽屋探しは如何《いかん》と。二三子の言の出づる所を知らず、相顧みて唖然《あぜん》たるのみ。(一月二十七日)

     尾崎紅葉

 紅葉の歿後殆二十年。その「多情多恨」の如き、「伽羅枕《からまくら》」の如き、「二人女房」の如き、今日|猶《なほ》之を翻読するも宛然《えんぜん》たる一朶《いちだ》の鼈甲牡丹《べつかうぼたん》、光彩更に磨滅すべからざるが如し。人亡んで業|顕《あらは》るとは誠にこの人の謂《いひ》なるかな。思ふに前記の諸篇の如き、布局法あり、行筆本あり、変化至つて規矩《きく》を離れざる、能く久遠に垂《た》るべき所以《ゆゑん》ならん。予常に思ふ、芸術の境に未成品ある莫《な》しと。紅葉亦然らざらんや。(二月三日)

     誨淫の書

 金瓶梅《きんぺいばい》、肉蒲団《にくぶとん》は問はず、予が知れる支那小説中、誨淫の譏《そしり》あるものを列挙すれば、杏花天《きやうくわてん》、燈芯奇僧伝《たうしんきそうでん》、痴婆子伝《ちばしでん》、牡丹奇縁、如意君伝《によいくんでん》、桃花庵、品花宝鑑《ひんくわはうかん》、意外縁、殺子報、花影奇情伝、醒世第一奇書《せいせいだいいちきしよ》、歓喜奇観、春風得意奇縁、鴛鴦夢《えんあうむ》、野臾曝言《やゆばうげん》、淌牌黒幕《せうはいこくばく》等なるべし。聞く、夙《つと》に舶載せられしものは、既に日本語の翻案ありと。又聞く、近年この種の翻案を密に剞※[#「厥+りっとう」、第4水準2−3−30]《きけつ》に附せしものありと。若し這般《しやはん》の和訳艶情小説を一読過せんと欲するものは、請《こ》ふ、当代の
前へ 次へ
全17ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング