私はためらった。
「さあ――しかし――どうでしょう。」
田代君はしばらく黙っていた。が、やがて煙の消えたパイプへもう一度火を移すと、
「私はほんとうにあったかとも思うのです。ただ、それが稲見家の聖母のせいだったかどうかは、疑問ですが、――そう云えば、まだあなたはこの麻利耶観音の台座の銘《めい》をお読みにならなかったでしょう。御覧なさい。此処に刻んである横文字を。――DESINE FATA DEUM LECTI SPERARE PRECANDO[#「DESINE FATA DEUM LECTI SPERARE PRECANDO」に「「汝の祈祷、神々の定め給う所を動かすべしと望む勿れ」の意」の注記]……」
私はこの運命それ自身のような麻利耶観音へ、思わず無気味な眼を移した。聖母は黒檀《こくたん》の衣を纏《まと》ったまま、やはりその美しい象牙《ぞうげ》の顔に、ある悪意を帯びた嘲笑を、永久に冷然と湛《たた》えている。――
[#地から1字上げ](大正九年四月)
底本:「芥川龍之介全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1986(昭和61)年12月1日第1刷発行
1996(平成8)年4月1日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:earthian
1998年12月28日公開
2004年3月8日修正
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