《いえ》重代《えじゅうだい》の麻利耶観音を私にくれて行ったのです。
私の所謂妙な伝説と云うのも、その時稲見の口から聞いたのですが、彼自身は勿論そう云う不思議を信じている訳でも何でもありません。ただ、母親から聞かされた通り、この聖母の謂《い》われ因縁をざっと説明しただけだったのです。
何でも稲見の母親が十《とお》か十一の秋だったそうです。年代にすると、黒船が浦賀《うらが》の港を擾《さわ》がせた嘉永《かえい》の末年にでも当りますか――その母親の弟になる、茂作《もさく》と云う八ツばかりの男の子が、重い痲疹《はしか》に罹《かか》りました。稲見の母親はお栄《えい》と云って、二三年|前《ぜん》の疫病に父母共世を去って以来、この茂作と姉弟二人、もう七十を越した祖母の手に育てられて来たのだそうです。ですから茂作が重病になると、稲見には曽祖母《そうそぼ》に当る、その切髪《きりがみ》の隠居の心配と云うものは、一通《ひととお》りや二通《ふたとお》りではありません。が、いくら医者が手を尽しても、茂作の病気は重くなるばかりで、ほとんど一週間と経たない内に、もう今日《きょう》か明日《あす》かと云う容体《ようだい》になってしまいました。
するとある夜の事、お栄のよく寝入っている部屋へ、突然祖母がはいって来て、眠むがるのを無理に抱《だ》き起してから、人手も借りず甲斐甲斐しく、ちゃんと着物を着換えさせたそうです。お栄はまだ夢でも見ているような、ぼんやりした心もちでいましたが、祖母はすぐにその手を引いて、うす暗い雪洞《ぼんぼり》に人気《ひとけ》のない廊下《ろうか》を照らしながら、昼でも滅多にはいった事のない土蔵《どぞう》へお栄をつれて行きました。
土蔵の奥には昔から、火伏《ひぶ》せの稲荷《いなり》が祀《まつ》ってあると云う、白木《しらき》の御宮がありました。祖母は帯の間から鍵《かぎ》を出して、その御宮の扉を開けましたが、今|雪洞《ぼんぼり》の光に透《す》かして見ると、古びた錦の御戸帳《みとちょう》の後に、端然と立っている御神体は、ほかでもない、この麻利耶観音なのです。お栄はそれを見ると同時に、急に※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]《こおろぎ》の鳴く声さえしない真夜中の土蔵が怖くなって、思わず祖母の膝へ縋《すが》りついたまま、しくしく泣き出してしまいました。が、祖母はいつもと違って、お栄の泣くのにも頓着せず、その麻利耶観音の御宮の前に坐りながら、恭《うやうや》しく額に十字を切って、何かお栄にわからない御祈祷《ごきとう》をあげ始めたそうです。
それがおよそ十分あまりも続いてから、祖母は静に孫娘を抱き起すと、怖がるのを頻《しき》りになだめなだめ、自分の隣に坐らせました。そうして今度はお栄にもわかるように、この黒檀《こくたん》の麻利耶観音へ、こんな願《がん》をかけ始めました。
「童貞聖麻利耶様《ビルゼンサンタマリヤさま》、私が天にも地にも、杖柱《つえはしら》と頼んで居りますのは、当年八歳の孫の茂作と、ここにつれて参りました姉のお栄ばかりでございます。お栄もまだ御覧の通り、婿《むこ》をとるほどの年でもございません。もし唯今茂作の身に万一の事でもございましたら、稲見の家は明日《あす》が日にも世嗣《よつ》ぎが絶えてしまうのでございます。そのような不祥がございませんように、どうか茂作の一命を御守りなすって下さいまし。それも私風情《わたしふぜい》の信心には及ばない事でございましたら、せめては私の息のございます限り、茂作の命を御助け下さいまし。私もとる年でございますし、霊魂《アニマ》を天主《デウス》に御捧げ申すのも、長い事ではございますまい。しかし、それまでには孫のお栄も、不慮の災難でもございませなんだら、大方《おおかた》年頃になるでございましょう。何卒《なにとぞ》私が目をつぶりますまででよろしゅうございますから、死の天使《アンジョ》の御剣《おんつるぎ》が茂作の体に触れませんよう、御慈悲を御垂れ下さいまし。」
祖母は切髪《きりがみ》の頭《かしら》を下げて、熱心にこう祈りました。するとその言葉が終った時、恐る恐る顔を擡《もた》げたお栄の眼には、気のせいか麻利耶観音が微笑したように見えたと云うのです。お栄は勿論小さな声をあげて、また祖母の膝に縋りつきました。が、祖母は反《かえ》って満足そうに、孫娘の背をさすりながら、
「さあ、もうあちらへ行きましょう。麻利耶様は難有《ありがた》い事に、この御婆さんのお祈りを御聞き入れになって下すったからね。」
と、何度も繰り返して云ったそうです。
さて明くる日になって見ると、成程《なるほど》祖母の願がかなったか、茂作は昨日《きのう》よりも熱が下って、今まではまるで夢中だったのが、次第に正気《しょうき》さえついて来ました。この容子《
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