――事によるとこの時、このとりとめのない視線の中には、三四日前に彼自身が、その辞世の句に詠じた通り、茫々《ばうばう》とした枯野の暮色が、一痕《いつこん》の月の光もなく、夢のやうに漂つてでもゐたのかも知れない。
「水を。」
木節はやがてかう云つて、静に後にゐる治郎兵衛を顧みた。一椀の水と一本の羽根楊子とは、既にこの老僕が、用意して置いた所である。彼は二品をおづおづ主人の枕元へ押し並べると、思ひ出したやうに又、口を早めて、専念に称名《しようみやう》を唱へ始めた。治郎兵衛の素朴な、山家育ちの心には、芭蕉にせよ、誰にせよ、ひとしく彼岸《ひがん》に往生するのなら、ひとしく又、弥陀《みだ》の慈悲にすがるべき筈だと云ふ、堅い信念が根を張つてゐたからであらう。
一方又木節は、「水を」と云つた刹那《せつな》の間、果して自分は医師として、万方《ばんぱう》を尽したらうかと云ふ、何時《いつ》もの疑惑に遭遇したが、すぐに又自ら励ますやうな心もちになつて、隣にゐた其角の方をふりむきながら、無言の儘《まま》、ちよいと相図をした。芭蕉の床を囲んでゐた一同の心に、愈《いよいよ》と云ふ緊張した感じが咄嗟《とつさ》に閃いたのはこの時である。が、その緊張した感じと前後して、一種の弛緩《しくわん》した感じが――云はば、来る可きものが遂に来たと云ふ、安心に似た心もちが、通りすぎた事も亦争はれない。唯、この安心に似た心もちは、誰もその意識の存在を肯定しようとはしなかつた程、微妙な性質のものであつたからか、現にここにゐる一同の中では、最も現実的な其角でさへ、折から顔を見合せた木節と、際どく相手の眼の中に、同じ心もちを読み合つた時は、流石《さすが》にぎよつとせずにはゐられなかつたのであらう。彼は慌《あわただ》しく視線を側へ外《そ》らせると、さり気なく羽根楊子をとりあげて、
「では、御先へ」と、隣の去来に挨拶した。さうしてその羽根楊子へ湯呑の水をひたしながら、厚い膝をにじらせて、そつと今はの師匠の顔をのぞきこんだ。実を云ふと彼は、かうなるまでに、師匠と今生《こんじやう》の別をつげると云ふ事は、さぞ悲しいものであらう位な、予測めいた考もなかつた訳ではない。が、かうして愈末期《いよいよまつご》の水をとつて見ると、自分の実際の心もちは全然その芝居めいた予測を裏切つて、如何にも冷淡に澄みわたつてゐる。のみならず、更に其角が意外だつた事には、文字通り骨と皮ばかりに痩せ衰へた、致死期の師匠の不気味な姿は、殆面《ほとんどおもて》を背《そむ》けずにはゐられなかつた程、烈しい嫌悪の情を彼に起させた。いや、単に烈しいと云つたのでは、まだ十分な表現ではない。それは恰《あたか》も目に見えない毒物のやうに、生理的な作用さへも及ぼして来る、最も堪へ難い種類の嫌悪であつた。彼はこの時、偶然な契機によつて、醜き一切に対する反感を師匠の病躯《びやうく》の上に洩らしたのであらうか。或は又「生」の享楽家たる彼にとつて、そこに象徴された「死」の事実が、この上もなく呪ふ可き自然の威嚇《ゐかく》だつたのであらうか。――兎に角、垂死《すゐし》の芭蕉の顔に、云ひやうのない不快を感じた其角は、殆《ほとんど》何の悲しみもなく、その紫がかつたうすい唇に、一刷毛《ひとはけ》の水を塗るや否や、顔をしかめて引き下つた。尤《もつと》もその引き下る時に、自責に似た一種の心もちが、刹那に彼の心をかすめもしたが、彼のさきに感じてゐた嫌悪の情は、さう云ふ道徳感に顧慮すべく、余り強烈だつたものらしい。
其角に次いで羽根楊子をとり上げたのは、さつき木節が相図をした時から、既に心の落着きを失つてゐたらしい去来である。日頃から恭謙の名を得てゐた彼は、一同に軽く会釈《ゑしやく》をして、芭蕉の枕もとへすりよつたが、そこに横はつてゐた老俳諧師の病みほうけた顔を眺めると、或満足と悔恨との不思議に錯雑した心もちを、嫌でも味はなければならなかつた。しかもその満足と悔恨とは、まるで陰と日向《ひなた》のやうに、離れられない因縁《いんねん》を背負つて、実はこの四五日以前から、絶えず小心な彼の気分を掻乱《かきみだ》してゐたのである。と云ふのは、師匠の重病だと云ふ知らせを聞くや否や、すぐに伏見から船に乗つて、深夜にもかまはず、この花屋の門を叩いて以来、彼は師匠の看病を一日も怠つたと云ふ事はない。その上|之道《しだう》に頼みこんで手伝ひの周旋を引き受けさせるやら、住吉大明神へ人を立てて病気本復を祈らせるやら、或は又花屋仁左衛門に相談して調度類の買入れをして貰ふやら、殆《ほとんど》彼一人が車輪になつて、万事万端の世話を焼いた。それは勿論去来自身進んで事に当つたので、誰に恩を着せようと云ふ気も、皆無だつた事は事実であるが、一身を挙げて師匠の介抱に没頭したと云ふ自覚は、勢《いき
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