わいえやす》の耳にもはいらない訣《わけ》には行《ゆ》かなかった。のみならず直孝は家康に謁《えっ》し、古千屋に直之《なおゆき》の悪霊《あくりょう》の乗り移ったために誰も皆恐れていることを話した。
「直之の怨《うら》むのも不思議はない。では早速実検しよう。」
家康は大蝋燭《おおろうそく》の光の中にこうきっぱり言葉を下《くだ》した。
夜《よ》ふけの二条《にじょう》の城の居間に直之の首を実検するのは昼間《ひるま》よりも反《かえ》ってものものしかった。家康は茶色の羽織を着、下括《したくく》りの袴《はかま》をつけたまま、式通りに直之の首を実検した。そのまた首の左右には具足をつけた旗本《はたもと》が二人いずれも太刀《たち》の柄《つか》に手をかけ、家康の実検する間《あいだ》はじっと首へ目を注《そそ》いでいた。直之の首は頬たれ首ではなかった。が、赤銅色《しゃくどういろ》を帯びた上、本多正純《ほんだまさずみ》のいったように大きい両眼を見開いていた。
「これで塙団右衛門も定めし本望《ほんもう》でございましょう。」
旗本の一人、――横田甚右衛門《よこたじんえもん》はこう言って家康に一礼した。
しかし家康は頷《うなず》いたぎり、何《なん》ともこの言葉に答えなかった。のみならず直孝を呼び寄せると、彼の耳へ口をつけるようにし、「その女の素姓《すじょう》だけは検《しら》べておけよ」と小声に彼に命令した。
三
家康の実検をすました話はもちろん井伊の陣屋にも伝わって来ずにはいなかった。古千屋《こちや》はこの話を耳にすると、「本望《ほんもう》、本望」と声をあげ、しばらく微笑を浮かべていた。それからいかにも疲れはてたように深い眠りに沈んで行った。井伊の陣屋の男女《なんにょ》たちはやっと安堵《あんど》の思いをした。実際古千屋の男のように太い声に罵《ののし》り立てるのは気味の悪いものだったのに違いなかった。
そのうちに夜《よ》は明けて行った。直孝《なおたか》は早速《さっそく》古千屋《こちや》を召し、彼女の素姓《すじょう》を尋ねて見ることにした。彼女はこういう陣屋にいるには余りにか細い女だった。殊に肩の落ちているのはもの哀れよりもむしろ痛々しかった。
「そちはどこで産《うま》れたな?」
「芸州《げいしゅう》広島《ひろしま》の御城下《ごじょうか》でございます。」
直孝はじっと古千屋を見つめ、こういう問答を重ねた後《のち》、徐《おもむろ》に最後の問を下した。
「そちは塙《ばん》のゆかりのものであろうな?」
古千屋ははっとしたらしかった。が、ちょっとためらった後《のち》、存外《ぞんがい》はっきり返事をした。
「はい。お羞《はずか》しゅうございますが……」
直之《なおゆき》は古千屋の話によれば、彼女に子を一人《ひとり》生ませていた。
「そのせいでございましょうか、昨夜《さくや》も御実検下さらぬと聞き、女ながらも無念に存じますと、いつか正気《しょうき》を失いましたと見え、何やら口走ったように承わっております。もとよりわたくしの一存《いちぞん》には覚えのないことばかりでございますが。……」
古千屋は両手をついたまま、明かに興奮しているらしかった。それはまた彼女のやつれた姿にちょうど朝日に輝いている薄《うす》ら氷《ひ》に近いものを与えていた。
「善《よ》い。善い。もう下《さが》って休息せい。」
直孝は古千屋を退けた後《のち》、もう一度家康の目通《めどお》りへ出、一々彼女の身の上を話した。
「やはり塙団右衛門《ばんだんえもん》にゆかりのあるものでございました。」
家康は初めて微笑《びしょう》した。人生は彼には東海道の地図のように明かだった。家康は古千屋の狂乱の中にもいつか人生の彼に教えた、何ごとにも表裏《ひょうり》のあるという事実を感じない訣《わけ》には行《ゆ》かなかった。この推測は今度も七十歳を越した彼の経験に合《がっ》していた。……
「さもあろう。」
「あの女はいかがいたしましょう?」
「善《よ》いわ、やはり召使っておけ。」
直孝はやや苛立《いらだ》たしげだった。
「けれども上《かみ》を欺《あざむ》きました罪は……」
家康はしばらくだまっていた。が、彼の心の目は人生の底にある闇黒《あんこく》に――そのまた闇黒の中にいるいろいろの怪物に向っていた。
「わたくしの一存《いちぞん》にとり計《はか》らいましても、よろしいものでございましょうか?」
「うむ、上を欺いた……」
それは実際直孝には疑う余地などのないことだった。しかし家康はいつの間《ま》にか人一倍大きい目をしたまま、何か敵勢にでも向い合ったようにこう堂々と返事をした。――
「いや、おれは欺《あざむ》かれはせぬ。」
[#地から1字上げ](昭和二年五月七日)
底本:「芥川龍之介全集
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