屋を見つめ、こういう問答を重ねた後《のち》、徐《おもむろ》に最後の問を下した。
「そちは塙《ばん》のゆかりのものであろうな?」
 古千屋ははっとしたらしかった。が、ちょっとためらった後《のち》、存外《ぞんがい》はっきり返事をした。
「はい。お羞《はずか》しゅうございますが……」
 直之《なおゆき》は古千屋の話によれば、彼女に子を一人《ひとり》生ませていた。
「そのせいでございましょうか、昨夜《さくや》も御実検下さらぬと聞き、女ながらも無念に存じますと、いつか正気《しょうき》を失いましたと見え、何やら口走ったように承わっております。もとよりわたくしの一存《いちぞん》には覚えのないことばかりでございますが。……」
 古千屋は両手をついたまま、明かに興奮しているらしかった。それはまた彼女のやつれた姿にちょうど朝日に輝いている薄《うす》ら氷《ひ》に近いものを与えていた。
「善《よ》い。善い。もう下《さが》って休息せい。」
 直孝は古千屋を退けた後《のち》、もう一度家康の目通《めどお》りへ出、一々彼女の身の上を話した。
「やはり塙団右衛門《ばんだんえもん》にゆかりのあるものでございました。」
 家康は初めて微笑《びしょう》した。人生は彼には東海道の地図のように明かだった。家康は古千屋の狂乱の中にもいつか人生の彼に教えた、何ごとにも表裏《ひょうり》のあるという事実を感じない訣《わけ》には行《ゆ》かなかった。この推測は今度も七十歳を越した彼の経験に合《がっ》していた。……
「さもあろう。」
「あの女はいかがいたしましょう?」
「善《よ》いわ、やはり召使っておけ。」
 直孝はやや苛立《いらだ》たしげだった。
「けれども上《かみ》を欺《あざむ》きました罪は……」
 家康はしばらくだまっていた。が、彼の心の目は人生の底にある闇黒《あんこく》に――そのまた闇黒の中にいるいろいろの怪物に向っていた。
「わたくしの一存《いちぞん》にとり計《はか》らいましても、よろしいものでございましょうか?」
「うむ、上を欺いた……」
 それは実際直孝には疑う余地などのないことだった。しかし家康はいつの間《ま》にか人一倍大きい目をしたまま、何か敵勢にでも向い合ったようにこう堂々と返事をした。――
「いや、おれは欺《あざむ》かれはせぬ。」
[#地から1字上げ](昭和二年五月七日)



底本:「芥川龍之介全集
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング