塙団右衛門直之はいつか天下に名を知られた物師《ものし》の一人に数えられていた。のみならず家康の妾《しょう》お万《まん》の方《かた》も彼女の生んだ頼宣《よりのぶ》のために一時は彼に年ごとに二百両の金を合力《ごうりょく》していた。最後に直之は武芸のほかにも大竜和尚《だいりゅうおしょう》の会下《えか》に参じて一字不立《いちじふりゅう》の道を修めていた。家康のこういう直之の首を実検したいと思ったのも必ずしも偶然ではないのだった。……
しかし正純は返事をせずに、やはり次ぎの間に控《ひか》えていた成瀬隼人正正成《なるせはいとのしょうまさなり》や土井大炊頭利勝《どいおおいのかみとしかつ》へ問わず語りに話しかけた。
「とかく人と申すものは年をとるに従って情《じょう》ばかり剛《こわ》くなるものと聞いております。大御所《おおごしょ》ほどの弓取もやはりこれだけは下々《しもじも》のものと少しもお変りなさりませぬ。正純も弓矢の故実だけは聊《いささ》かわきまえたつもりでおります。直之の首は一つ首でもあり、目を見開いておればこそ、御実検をお断り申し上げました。それを強《し》いてお目通りへ持って参れと御意《ぎょい》なさるのはその好《よ》い証拠ではございませぬか?」
家康は花鳥《かちょう》の襖越《ふすまご》しに正純の言葉を聞いた後《のち》、もちろん二度と直之の首を実検しようとは言わなかった。
二
すると同じ三十日の夜《よ》、井伊掃部頭直孝《いいかもんのかみなおたか》の陣屋《じんや》に召し使いになっていた女が一人|俄《にわか》に気の狂ったように叫び出した。彼女はやっと三十を越した、古千屋《こちや》という名の女だった。
「塙団右衛門《ばんだんえもん》ほどの侍《さむらい》の首も大御所《おおごしょ》の実検には具《そな》えおらぬか? 某《それがし》も一手《ひとて》の大将だったものを。こういう辱《はずか》しめを受けた上は必ず祟《たた》りをせずにはおかぬぞ。……」
古千屋はつづけさまに叫びながら、その度に空中へ踊《おど》り上ろうとした。それはまた左右の男女《なんにょ》たちの力もほとんど抑えることの出来ないものだった。凄《すさま》じい古千屋の叫び声はもちろん、彼等の彼女を引据えようとする騒ぎも一かたならないのに違いなかった。
井伊の陣屋の騒《さわ》がしいことはおのずから徳川家康《とくが
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