服に着換えた上、楽々と長火鉢の前に坐り、安い葉巻を吹かしたり、今年やっと小学校にはいった一人息子の武夫をからかったりした。
 重吉はいつもお鈴や武夫とチャブ台を囲んで食事をした。彼等の食事は賑《にぎや》かだった。が、近頃は「賑か」と云っても、どこか又窮屈にも違いなかった。それは唯玄鶴につき添う甲野と云う看護婦の来ている為だった。尤も武夫は「甲野さん」がいても、ふざけるのに少しも変らなかった。いや、或は「甲野さん」がいる為に余計ふざける位だった。お鈴は時々|眉《まゆ》をひそめ、こう云う武夫を睨《にら》んだりした。しかし武夫はきょとんとしたまま、わざと大仰に茶碗《ちゃわん》の飯を掻《か》きこんで見せたりするだけだった。重吉は小説などを読んでいるだけに武夫のはしゃぐのにも「男」を感じ、不快になることもないではなかった。が、大抵は微笑したぎり、黙って飯を食っているのだった。
「玄鶴山房」の夜は静かだった。朝早く家を出る武夫は勿論、重吉夫婦も大抵は十時には床に就くことにしていた。その後でもまだ起きているのは九時前後から夜伽《よとぎ》をする看護婦の甲野ばかりだった。甲野は玄鶴の枕《まくら》もとに赤あかと火の起った火鉢を抱え、居睡《いねむ》りもせずに坐っていた。玄鶴は、――玄鶴も時々は目を醒《さ》ましていた。が、湯たんぽが冷えたとか、湿布が乾いたとか云う以外に殆ど口を利いたことはなかった。こう云う「離れ」にも聞えて来るものは植え込みの竹の戦《そよ》ぎだけだった。甲野は薄ら寒い静かさの中にじっと玄鶴を見守ったまま、いろいろのことを考えていた。この一家の人々の心もちや彼女自身の行く末などを。………

   三

 或雪の晴れ上った午後、二十四五の女が一人、か細い男の子の手を引いたまま、引き窓越しに青空の見える堀越家の台所へ顔を出した。重吉は勿論家にいなかった。丁度ミシンをかけていたお鈴は多少予期はしていたものの、ちょっと当惑に近いものを感じた。しかし兎に角この客を迎えに長火鉢の前を立って行った。客は台所へ上った後、彼女自身の履き物や男の子の靴を揃《そろ》え直した。(男の子は白いスウェエタアを着ていた。)彼女がひけ目を感じていることはこう云う所作だけにも明らかだった。が、それも無理はなかった。彼女はこの五六年以来、東京の或近在に玄鶴が公然と囲って置いた女中上りのお芳だった。
 お鈴はお芳の顔を見た時、存外彼女が老《ふ》けたことを感じた。しかもそれは顔ばかりではなかった。お芳は四五年以前には円まると肥《ふと》った手をしていた。が、年は彼女の手さえ静脈の見えるほど細らせていた。それから彼女が身につけたものも、――お鈴は彼女の安ものの指環《ゆびわ》に何か世帯じみた寂しさを感じた。
「これは兄が檀那様《だんなさま》に差し上げてくれと申しましたから。」
 お芳は愈《いよいよ》気後れのしたように古い新聞紙の包みを一つ、茶の間へ膝《ひざ》を入れる前にそっと台所の隅へ出した。折から洗いものをしていたお松はせっせと手を動かしながら、水々しい銀杏返《いちょうがえ》しに結ったお芳を時々尻目に窺《うかが》ったりしていた。が、この新聞紙の包みを見ると、更に悪意のある表情をした。それは又実際|文化竈《ぶんかかまど》や華奢《きゃしゃ》な皿小鉢と調和しない悪臭を放っているのに違いなかった。お芳はお松を見なかったものの、少くともお鈴の顔色に妙なけはいを感じたと見え、「これは、あの、大蒜《にんにく》でございます」と説明した。それから指を噛《か》んでいた子供に「さあ、坊ちゃん、お時宜《じぎ》なさい」と声をかけた。男の子は勿論《もちろん》玄鶴がお芳に生ませた文太郎だった。その子供をお芳が「坊ちゃん」と呼ぶのはお鈴には如何にも気の毒だった。けれども彼女の常識はすぐにそれもこう云う女には仕かたがないことと思い返した。お鈴はさりげない顔をしたまま、茶の間の隅に坐《すわ》った親子に有り合せの菓子や茶などをすすめ、玄鶴の容態を話したり、文太郎の機嫌をとったりし出した。………
 玄鶴はお芳を囲い出した後、省線電車の乗り換えも苦にせず、一週間に一二度ずつは必ず妾宅《しょうたく》へ通って行った。お鈴はこう云う父の気もちに始めのうちは嫌悪を感じていた。「ちっとはお母さんの手前も考えれば善いのに、」――そんなことも度たび考えたりした。尤《もっと》もお鳥は何ごとも詮《あきら》め切っているらしかった。しかしお鈴はそれだけ一層母を気の毒に思い、父が妾宅へ出かけた後でも母には「きょうは詩の会ですって」などと白々しい※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》をついたりしていた。その※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]が役に立たないことは彼女自身も知らないのではなかった。が、時々母の顔に
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