くは互に抱《だ》き合ったまま、うれし涙にくれていらっしゃいました。髪長彦もこの気色《けしき》を見て、貰い泣きをしていましたが、急に三匹の犬が背中の毛を逆立《さかだ》てて、
「わん。わん。土蜘蛛《つちぐも》の畜生め。」
「憎いやつだ。わん。わん。」
「わん。わん。わん。覚えていろ。わん。わん。わん。」と、気の違ったように吠え出しましたから、ふと気がついてふり返えると、あの狡猾《こうかつ》な土蜘蛛は、いつどうしたのか、大きな岩で、一分の隙《すき》もないように、外から洞穴の入口をぴったりふさいでしまいました。おまけにその岩の向うでは、
「ざまを見ろ、髪長彦め。こうして置けば、貴様たちは、一月とたたない中に、ひぼしになって死んでしまうぞ。何と己様《おれさま》の計略は、恐れ入ったものだろう。」と、手を拍《たた》いて土蜘蛛の笑う声がしています。
 これにはさすがの髪長彦も、さては一ぱい食わされたかと、一時は口惜しがりましたが、幸い思い出したのは、腰にさしていた笛の事です。この笛を吹きさえすれば、鳥獣《とりけもの》は云うまでもなく、草木《くさき》もうっとり聞き惚《ほ》れるのですから、あの狡猾《こうかつ》な土蜘蛛も、心を動かさないとは限りません。そこで髪長彦は勇気をとり直して、吠えたける犬をなだめながら、一心不乱に笛を吹き出しました。
 するとその音色《ねいろ》の面白さには、悪者の土蜘蛛も、追々《おいおい》我を忘れたのでしょう。始は洞穴の入口に耳をつけて、じっと聞き澄ましていましたが、とうとうしまいには夢中になって、一寸二寸と大岩を、少しずつ側《わき》へ開きはじめました。
 それが人一人通れるくらい、大きな口をあいた時です。髪長彦は急に笛をやめて、
「噛め。噛め。洞穴の入口に立っている土蜘蛛を噛み殺せ。」と、斑犬《ぶちいぬ》の背中をたたいて、云いつけました。
 この声に胆をつぶして、一目散に土蜘蛛は、逃げ出そうとしましたが、もうその時は間に合いません。「噛め」はまるで電《いなずま》のように、洞穴の外へ飛び出して、何の苦もなく土蜘蛛を噛み殺してしまいました。
 所がまた不思議な事には、それと同時に谷底から、一陣の風が吹き起って、
「髪長彦さん。難有《ありがと》う。この御恩は忘れません。私《わたし》は土蜘蛛にいじめられていた、笠置山《かさぎやま》の笠姫《かさひめ》です。」とやさしい声が聞えました。

        五

 それから髪長彦《かみながひこ》は、二人の御姫様と三匹の犬とをひきつれて、黒犬の背に跨がりながら、笠置山《かさぎやま》の頂から、飛鳥《あすか》の大臣様《おおおみさま》の御出になる都の方へまっすぐに、空を飛んでまいりました。その途中で二人の御姫様は、どう御思いになったのか、御自分たちの金の櫛と銀の櫛とをぬきとって、それを髪長彦の長い髪へそっとさして御置きになりました。が、こっちは元よりそんな事には、気がつく筈がありません。ただ、一生懸命に黒犬を急がせながら、美しい大和《やまと》の国原《くにはら》を足の下に見下して、ずんずん空を飛んで行きました。
 その中に髪長彦は、あの始めに通りかかった、三つ叉《また》の路の空まで、犬を進めて来ましたが、見るとそこにはさっきの二人の侍が、どこからかの帰りと見えて、また馬を並べながら、都の方へ急いでいます。これを見ると、髪長彦は、ふと自分の大手柄を、この二人の侍たちにも聞かせたいと云う心もちが起って来たものですから、
「下りろ。下りろ。あの三つ叉《また》になっている路の上へ下りて行け。」と、こう黒犬に云いつけました。
 こっちは二人の侍です。折角方々探しまわったのに、御姫様たちの御行方がどうしても知れないので、しおしお馬を進めていると、いきなりその御姫様たちが、女のような木樵《きこり》と一しょに、逞《たくま》しい黒犬に跨って、空から舞い下って来たのですから、その驚きと云ったらありません。
 髪長彦は犬の背中を下りると、叮嚀にまたおじぎをして、
「殿様、私《わたくし》はあなた方に御別れ申してから、すぐに生駒山《いこまやま》と笠置山《かさぎやま》とへ飛んで行って、この通《とお》り御二方の御姫様を御助け申してまいりました。」と云いました。
 しかし二人の侍は、こんな卑しい木樵《きこり》などに、まんまと鼻をあかされたのですから、羨《うらやま》しいのと、妬《ねた》ましいのとで、腹が立って仕方がありません。そこで上辺《うわべ》はさも嬉しそうに、いろいろ髪長彦の手柄を褒《ほ》め立てながら、とうとう三匹の犬の由来や、腰にさした笛の不思議などをすっかり聞き出してしまいました。そうして髪長彦の油断をしている中に、まず大事な笛をそっと腰からぬいてしまうと、二人はいきなり黒犬の背中へとび乗って、二人の御姫様と二匹の犬とを、しっかりと両脇に抱えながら、
「飛べ。飛べ。飛鳥《あすか》の大臣様《おおおみさま》のいらっしゃる、都の方へ飛んで行け。」と、声を揃えて喚《わめ》きました。
 髪長彦は驚いて、すぐに二人へとびかかりましたが、もうその時には大風が吹き起って、侍たちを乗せた黒犬は、きりりと尾を捲《ま》いたまま、遥な青空の上の方へ舞い上って行ってしまいました。
 あとにはただ、侍たちの乗りすてた二匹の馬が残っているばかりですから、髪長彦は三つ叉になった往来のまん中につっぷして、しばらくはただ悲しそうにおいおい泣いておりました。
 すると生駒山《いこまやま》の峰の方から、さっと風が吹いて来たと思いますと、その風の中に声がして、
「髪長彦さん。髪長彦さん。私《わたし》は生駒山の駒姫《こまひめ》です。」と、やさしい囁《ささや》きが聞えました。
 それと同時にまた笠置山《かさぎやま》の方からも、さっと風が渡るや否や、やはりその風の中にも声があって、
「髪長彦さん。髪長彦さん。私《わたし》は笠置山の笠姫《かさひめ》です。」と、これもやさしく囁きました。
 そうしてその声が一つになって、
「これからすぐに私《わたし》たちは、あの侍たちの後《あと》を追って、笛をとり返して上げますから、少しも御心配なさいますな。」と云うか云わない中《うち》に、風はびゅうびゅう唸りながら、さっき黒犬の飛んで行った方へ、狂って行ってしまいました。
 が、少したつとその風は、またこの三つ叉《また》になった路の上へ、前のようにやさしく囁きながら、高い空から下《おろ》して来ました。
「あの二人の侍たちは、もう御二方の御姫様と一しょに、飛鳥《あすか》の大臣様《おおおみさま》の前へ出て、いろいろ御褒美《ごほうび》を頂いています。さあ、さあ、早くこの笛を吹いて、三匹の犬をここへ御呼びなさい。その間《あいだ》に私たちは、あなたが御出世の旅立を、恥しくないようにして上げましょう。」
 こう云う声がしたかと思うと、あの大事な笛を始め、金の鎧《よろい》だの、銀の兜《かぶと》だの、孔雀《くじゃく》の羽の矢だの、香木《こうぼく》の弓だの、立派な大将の装いが、まるで雨か霰《あられ》のように、眩《まぶ》しく日に輝きながら、ばらばら眼の前へ降って来ました。

        六

 それからしばらくたって、香木の弓に孔雀の羽の矢を背負《しょ》った、神様のような髪長彦《かみながひこ》が、黒犬の背中に跨りながら、白と斑《ぶち》と二匹の犬を小脇にかかえて、飛鳥《あすか》の大臣様《おおおみさま》の御館《おやかた》へ、空から舞い下って来た時には、あの二人の年若な侍たちが、どんなに慌て騒ぎましたろう。
 いや、大臣様でさえ、あまりの不思議に御驚きになって、暫くはまるで夢のように、髪長彦の凜々《りり》しい姿を、ぼんやり眺めていらっしゃいました。
 が、髪長彦はまず兜《かぶと》をぬいで、叮嚀に大臣様に御じぎをしながら、
「私《わたくし》はこの国の葛城山《かつらぎやま》の麓に住んでいる、髪長彦と申すものでございますが、御二方の御姫様を御助け申したのは私で、そこにおります御侍たちは、食蜃人《しょくしんじん》や土蜘蛛《つちぐも》を退治するのに、指一本でも御動かしになりは致しません。」と申し上げました。
 これを聞いた侍たちは、何しろ今までは髪長彦の話した事を、さも自分たちの手柄らしく吹聴していたのですから、二人とも急に顔色を変えて、相手の言《ことば》を遮りながら、
「これはまた思いもよらない嘘をつくやつでございます。食蜃人の首を斬ったのも私《わたくし》たちなら、土蜘蛛《つちぐも》の計略を見やぶったのも、私たちに相違ございません。」と、誠しやかに申し上げました。
 そこでまん中に立った大臣様《おおおみさま》は、どちらの云う事がほんとうとも、見きわめが御つきにならないので、侍たちと髪長彦を御見比べなさりながら、
「これはお前たちに聞いて見るよりほかはない。一体お前たちを助けたのは、どっちの男だったと思う。」と、御姫様たちの方を向いて、仰有《おっしゃ》いました。
 すると二人の御姫様は、一度に御父様の胸に御すがりになりながら、
「私《わたし》たちを助けましたのは、髪長彦でございます。その証拠には、あの男のふさふさした長い髪に、私たちの櫛をさして置きましたから、どうかそれを御覧下さいまし。」と、恥しそうに御云いになりました。見ると成程、髪長彦の頭には、金の櫛と銀の櫛とが、美しくきらきら光っています。
 もうこうなっては侍たちも、ほかに仕方はございませんから、とうとう大臣様の前にひれ伏して、
「実は私《わたくし》たちが悪だくみで、あの髪長彦の助けた御姫様を、私たちの手柄のように、ここでは申し上げたのでございます。この通り白状致しました上は、どうか命ばかりは御助け下さいまし。」と、がたがたふるえながら申し上げました。
 それから先の事は、別に御話しするまでもありますまい。髪長彦は沢山御褒美を頂《いただ》いた上に、飛鳥《あすか》の大臣様の御婿様《おむこさま》になりましたし、二人の若い侍たちは、三匹の犬に追いまわされて、ほうほう御館《おやかた》の外へ逃げ出してしまいました。ただ、どちらの御姫様が、髪長彦の御嫁さんになりましたか、それだけは何分昔の事で、今でははっきりとわかっておりません。
[#地から1字上げ](大正七年十二月)



底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年10月28日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第11刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月7日公開
2004年3月8日修正
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