ながら、何度もこう自分に呼びかけた。
「根かぎり書きつづけろ。今|己《おれ》が書いていることは、今でなければ書けないことかも知れないぞ。」
 しかし光の靄《もや》に似た流れは、少しもその速力をゆるめない。かえって目まぐるしい飛躍のうちに、あらゆるものを溺《おぼ》らせながら、澎湃《ほうはい》として彼を襲って来る。彼は遂に全くその虜《とりこ》になった。そうして一切を忘れながら、その流れの方向に、嵐《あらし》のような勢いで筆を駆った。
 この時彼の王者のような眼に映っていたものは、利害でもなければ、愛憎でもない。まして毀誉《きよ》に煩わされる心などは、とうに眼底を払って消えてしまった。あるのは、ただ不可思議な悦《よろこ》びである。あるいは恍惚《こうこつ》たる悲壮の感激である。この感激を知らないものに、どうして戯作三昧《げさくざんまい》の心境が味到されよう。どうして戯作者の厳《おごそ》かな魂が理解されよう。ここにこそ「人生」は、あらゆるその残滓《ざんし》を洗って、まるで新しい鉱石のように、美しく作者の前に、輝いているではないか。……

      ×   ×   ×

 その間も茶の間の行燈《あんどう》のまわりでは、姑《しゅうと》のお百と、嫁のお路とが、向い合って縫い物を続けている。太郎はもう寝かせたのであろう。少し離れたところには※[#「兀+王」、第3水準1−47−62]弱《おうじゃく》らしい宗伯が、さっきから丸薬をまろめるのに忙しい。
「お父様《とっさん》はまだ寝ないかねえ。」
 やがてお百は、針へ髪の油をつけながら、不服らしくつぶやいた。
「きっとまたお書きもので、夢中になっていらっしゃるのでしょう。」
 お路は眼を針から離さずに、返事をした。
「困り者だよ。ろくなお金にもならないのにさ。」
 お百はこう言って、伜と嫁とを見た。宗伯は聞えないふりをして、答えない。お路も黙って針を運びつづけた。蟋蟀《こおろぎ》はここでも、書斎でも、変りなく秋を鳴きつくしている。
[#地から1字上げ](大正六年十一月)



底本:「日本の文学 29 芥川龍之介」中央公論社
   1964(昭和39)年10月5日初版発行
初出:「大阪毎日新聞」
   1917(大正6)年11月
入力:佐野良二
校正:伊藤時也
2000年4月15日公開
2004年1月11日修正
青空文庫作成ファイル:

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