返事くらいに驚くような男ではない。
「いかがでございましょう。そこで金瓶梅《きんぺいばい》の方へ、この次郎太夫を持ちこんで、御執筆を願うようなわけには参りますまいか。それはもう手前も、お忙しいのは重々承知いたしております。が、そこをどうかまげて、一つ御承諾を。」
鼠小僧はここに至って、たちまちまた元の原稿の催促へ舞い戻った。が、この慣用手段に慣れている馬琴は依然として承知しない。のみならず、彼は前よりもいっそう機嫌《きげん》が悪くなった。これは一時でも市兵衛の計に乗って、幾分の好奇心を動かしたのが、彼自身ばかばかしくなったからである。彼はまずそうに煙草《たばこ》を吸いながら、とうとうこんな理窟を言い出した。
「第一私がむりに書いたって、どうせろくなものは出来やしない。それじゃ売れ行きにかかわるのは言うまでもないことなのだから、貴公の方だってつまらなかろう。してみると、これは私の無理を通させる方が、結局両方のためになるだろうと思うが。」
「でございましょうが、そこを一つ御奮発願いたいので。いかがなものでございましょう。」
市兵衛は、こう言いながら、視線で彼の顔を「撫《な》で廻した。」(これは馬琴が和泉屋のある眼つきを形容した語《ことば》である。)そうして、煙草の煙をとぎれとぎれに鼻から出した。
「とても、書けないね。書きたくも、暇がないんだから、しかたがない。」
「それは手前、困却いたしますな。」
と言ったが、今度は突然、当時の作者仲間のことを話し出した。やっぱり細い銀の煙管を、うすい唇の間にくわえながら。
八
「また種彦《たねひこ》の何か新版物が、出るそうでございますな。いずれ優美第一の、哀れっぽいものでございましょう。あの仁《じん》の書くものは、種彦でなくては書けないというところがあるようで。」
市兵衛は、どういう気か、すべて作者の名前を呼びすてにする習慣がある。馬琴はそれを聞くたびに、自分もまた蔭では「馬琴が」と言われることだろうと思った。この軽薄な、作者を自家《じか》の職人だと心得ている男の口から、呼びすてにされてまでも、原稿を書いてやる必要がどこにある?――癇《かん》のたかぶった時々には、こう思って腹を立てたことも、稀《まれ》ではない。今日も彼は種彦という名を耳にすると、苦い顔をいよいよ苦くせずにはいられなかった。が、市兵衛には、少しも
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