経作用から来ているという事実にも、もちろん彼はとうから気がついていた。
「しかし、己を不快にするものは、まだほかにもある。それは己があの眇と、対抗するような位置に置かれたということだ。己は昔からそういう位置に身を置くことを好まない。勝負事をやらないのも、そのためだ。」
 ここまで分析して来た彼の頭は、さらに一歩を進めると同時に、思いもよらない変化を、気分の上に起させた。それはかたくむすんでいた彼の唇が、この時急にゆるんだのを見ても、知れることであろう。
「最後に、そういう位置へ己を置いた相手が、あの眇だという事実も、確かに己を不快にしている。もしあれがもう少し高等な相手だったら、己はこの不快を反※[#「てへん+発」、129−上段−3]するだけの、反抗心を起していたのに相違ない。何にしても、あの眇が相手では、いくら己でも閉口するはずだ。」
 馬琴は苦笑しながら、高い空を仰いだ。その空からは、朗かな鳶《とび》の声が、日の光とともに、雨のごとく落ちて来る。彼は今まで沈んでいた気分が次第に軽くなって来ることを意識した。
「しかし、眇がどんな悪評を立てようとも、それは精々、己を不快にさせるくらいだ。いくら鳶が鳴いたからといって、天日《てんじつ》の歩みが止まるものではない。己の八犬伝は必ず完成するだろう。そうしてその時は、日本が古今に比倫のない大伝奇を持つ時だ。」
 彼は恢復《かいふく》した自信をいたわりながら、細い小路を静かに家の方へ曲って行った。

     六

 うちへ帰ってみると、うす暗い玄関の沓脱《くつぬ》ぎの上に、見慣れたばら緒の雪駄《せった》が一足のっている。馬琴はそれを見ると、すぐにその客ののっぺりした顔が、眼に浮んだ。そうしてまた、時間をつぶされる迷惑を、苦々《にがにが》しく心に思い起した。
「今日も朝のうちはつぶされるな。」
 こう思いながら、彼が式台へ上がると、あわただしく出迎えた下女の杉が、手をついたまま、下から彼の顔を見上げるようにして、
「和泉屋《いずみや》さんが、お居間でお帰りをお待ちでございます。」と言った。
 彼はうなずきながら、ぬれ手拭を杉の手に渡した。が、どうもすぐに書斎へは通りたくない。
「お百《ひゃく》は。」
「御仏参《ごぶっさん》においでになりました。」
「お路《みち》もいっしょか。」
「はい。坊ちゃんとごいっしょに。」
「伜《せが
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