自分はさつき平吉が、最上級の語を使つて八犬伝を褒めた時にも、格別嬉しかつたとは思つてゐない。さうして見れば、今その反対に、自分が歌や発句を作る事の出来ない人間と見られたにしても、それを不満に思ふのは、明《あきらか》に矛盾である。咄嗟《とつさ》にかう云ふ自省を動かした彼は、恰《あたか》も内心の赤面を隠さうとするやうに、慌しく止め桶の湯を肩から浴びた。
「でございませう。さうなくつちや、とてもああ云ふ傑作は、お出来になりますまい。して見ますと、先生は歌も発句もお作りになると、かう睨んだ手前の眼光は、やつぱり大したものでございますな。これはとんだ手前味噌になりました。」
 平吉は又大きな声を立てて、笑つた。さつきの眇《すがめ》はもう側にゐない。痰《たん》も馬琴の浴びた湯に、流されてしまつた。が、馬琴がさつきにも増して恐縮したのは勿論の事である。
「いや、うつかり話しこんでしまつた。どれ私も一風呂、浴びて来ようか。」
 妙に間の悪くなつた彼は、かう云ふ挨拶と共に、自分に対する一種の腹立しさを感じながら、とうとうこの好人物の愛読者の前を退却すべく、徐《おもむろ》に立上つた。が、平吉は彼の気焔によつて寧《むし》ろ愛読者たる彼自身まで、肩身が広くなつたやうに、感じたらしい。
「では先生その中に一つ歌か発句かを書いて頂きたいものでございますな。よろしうございますか。お忘れになつちやいけませんぜ。ぢや手前も、これで失礼致しませう。お忙《せは》しうもございませうが、お通りすがりの節は、ちと御立ち寄りを。手前も亦、お邪魔に上ります。」
 平吉は追ひかけるやうに、かう云つた。さうして、もう一度手拭を洗ひ出しながら、柘榴口《ざくろぐち》の方へ歩いて行く馬琴の後姿を見送つて、これから家へ帰つた時に、曲亭先生に遇《あ》つたと云ふ事を、どんな調子で女房に話して聞かせようかと考へた。

       四

 柘榴口の中は、夕方のやうにうす暗い。それに湯気が、霧よりも深くこめてゐる。眼の悪い馬琴は、その中にゐる人々の間を、あぶなさうに押しわけながら、どうにか風呂の隅をさぐり当てると、やつとそこへ皺だらけな体を浸した。
 湯加減は少し熱い位である。彼はその熱い湯が爪の先にしみこむのを感じながら、長い呼吸《いき》をして、徐《おもむろ》に風呂の中を見廻はした。うす暗い中に浮んでゐる頭の数は、七つ八つもあらうか。それが皆話しをしたり、唄をうたつたりしてゐるまはりには、人間の脂を溶《とか》した、滑《なめらか》な湯の面《おもて》が、柘榴口からさす濁つた光に反射して、退屈さうにたぶたぶと動いてゐる。そこへ胸の悪い「銭湯の匂」がむんと人の鼻を衝《つ》いた。
 馬琴の空想には、昔から羅曼的《ロマンテイク》な傾向がある。彼はこの風呂の湯気の中に、彼が描かうとする小説の場景の一つを、思ひ浮べるともなく思ひ浮べた。そこには重い舟日覆《ふなひおひ》がある。日覆の外の海は、日の暮と共に風が出たらしい。舷《ふなべり》をうつ浪の音が、まるで油を揺るやうに、重苦しく聞えて来る。その音と共に、日覆をはためかすのは大方|蝙蝠《かうもり》の羽音であらう。舟子《かこ》の一人は、それを気にするやうに、そつと舷から外を覗いて見た。霧の下りた海の上には、赤い三日月が陰々《いんいん》と空に懸つてゐる。すると……
 彼の空想は、ここまで来て、急に破られた。同じ柘榴口の中で、誰か彼の読本《よみほん》の批評をしてゐるのが、ふと彼の耳へはいつたからである。しかも、それは声と云ひ、話様《はなしやう》と云ひ、殊更彼に聞かせようとして、しやべり立ててゐるらしい。馬琴は一旦風呂を出ようとしたが、やめて、ぢつとその批評を聞き澄ました。
「曲亭先生の、著作堂主人のと、大きな事を云つたつて、馬琴なんぞの書くものは、みんなありや焼直しでげす。早い話が八犬伝は、手もなく水滸伝《すゐこでん》の引写しぢやげえせんか。が、そりやまあ大目に見ても、いい筋がありやす。何しろ先が唐《から》の物でげせう。そこで、まづそれを読んだと云ふ丈でも、一手柄さ。所がそこへ又づぶ京伝《きやうでん》の二番煎《にばんせん》じと来ちや、呆れ返つて腹も立ちやせん。」
 馬琴はかすむ眼で、この悪口を云つてゐる男の方を透《すか》して見た。湯気に遮《さへぎ》られて、はつきりと見えないが、どうもさつき側にゐた眇《すがめ》の小銀杏ででもあるらしい。さうとすればこの男は、さつき平吉が八犬伝を褒めたのに業《ごふ》を煮やして、わざと馬琴に当りちらしてゐるのであらう。
「第一馬琴の書くものは、ほんの筆先一点張りでげす。まるで腹には、何にもありやせん。あればまづ寺子屋《てらこや》の師匠でも云ひさうな、四書五経《ししよごきやう》の講釈だけでげせう。だから又当世の事は、とんと御存じなしさ。それ
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