が出来ない。
「兎も角あれで、艶つぽい事にかけては、達者なものでございますからな。それに名代の健筆で。」
 かう云ひながら、市兵衛はちよいと馬琴の顔を見て、それから又すぐに口に啣《くは》へてゐる銀の煙管へ眼をやつた。その咄嗟の表情には、恐る可く下等な何者かがある。少くとも、馬琴はさう感じた。
「あれだけのものを書きますのに、すらすら筆が走りつづけて、二三回分位なら、紙からはなれないさうでございます。時に先生なぞは、やはりお早い方でございますか。」
 馬琴は不快を感じると共に、脅されるやうな心もちになつた。彼の筆の早さを春水や種彦のそれと比較されると云ふ事は、自尊心の旺盛《わうせい》な彼にとつて、勿論好ましい事ではない。しかも彼は遅筆の方である。彼はそれが自分の無能力に裏書きをするやうに思はれて、寂しくなつた事もよくあつた。が、一方又それが自分の芸術的良心を計る物差しとして、尊みたいと思つた事も度々ある。唯、それを俗人の穿鑿《せんさく》にまかせるのは、彼がどんな心もちでゐようとも、断じて許さうとは思はない。そこで彼は、眼を床の紅楓《こうふう》黄菊《くわうぎく》の方へやりながら、吐き出すやうにかう云つた。
「時と場合でね。早い時もあれば、又遅い時もある。」
「ははあ、時と場合でね。成程。」
 市兵衛は三度感服した。が、これが感服それ自身に了《をは》る感服でない事は、云ふまでもない。彼はこの後で、すぐに又、切りこんだ。
「でございますが、度々申し上げた原稿の方は、一つ御承諾下さいませんでせうか。春水なんぞも、……」
「私と為永《ためなが》さんとは違ふ。」
 馬琴は腹を立てると、下唇を左の方へまげる癖がある。この時、それが恐しい勢で左へまがつた。
「まあ私は御免を蒙《かうむ》らう。――杉、杉、和泉屋さんのお履物《はきもの》を直して置いたか。」

       九

 和泉屋市兵衛を逐《お》ひ帰すと、馬琴は独り縁側の柱へよりかかつて、狭い庭の景色を眺めながら、まだをさまらない腹の虫を、無理にをさめようとして、骨を折つた。
 日の光を一ぱいに浴びた庭先には、葉の裂けた芭蕉《ばせう》や、坊主になりかかつた梧桐《あをぎり》が、槇《まき》や竹の緑と一しよになつて、暖かく何坪かの秋を領してゐる。こつちの手水鉢《てうづばち》の側にある芙蓉《ふよう》は、もう花が疎《まばら》になつたが、向うの袖垣の外に植ゑた木犀《もくせい》は、まだその甘い匂が衰へない。そこへ例の鳶《とび》の声が遙《はるか》な青空の向うから、時々笛を吹くやうに落ちて来た。
 彼は、この自然と対照させて、今更のやうに世間の下等さを思出した。下等な世間に住む人間の不幸は、その下等さに煩《わづら》はされて、自分も亦下等な言動を余儀なくさせられる所にある。現に今自分は、和泉屋市兵衛を逐《お》ひ払つた。逐ひ払ふと云ふ事は、勿論高等な事でも何でもない。が、自分は相手の下等さによつて、自分も亦その下等な事を、しなくてはならない所まで押しつめられたのである。さうして、した。したと云ふ意味は市兵衛と同じ程度まで、自分を卑くしたと云ふのに外ならない。つまり自分は、それ丈堕落させられた訳である。
 ここまで考へた時に、彼はそれと同じやうな出来事を、近い過去の記憶に発見した。それは去年の春、彼の所へ弟子入りをしたいと云つて手紙をよこした、相州《さうしう》朽木《くちき》上新田《かみしんでん》とかの長島政兵衛《ながしままさべゑ》と云ふ男である。この男はその手紙によると、二十一の年に聾《つんぼ》になつて以来、廿四の今日まで文筆を以て天下に知られたいと云ふ決心で、専《もつぱ》ら読本《よみほん》の著作に精を出した。八犬伝や巡島記《じゆんたうき》の愛読者である事は云ふまでもない。就いてはかう云ふ田舎《ゐなか》にゐては、何かと修業の妨《さまたげ》になる。だから、あなたの所へ、食客に置いて貰ふ訳には行くまいか。それから又、自分は六冊物の読本の原稿を持つてゐる。これもあなたの筆削《ひつさく》を受けて、然るべき本屋から出版したい。――大体こんな事を書いてよこした。向うの要求は、勿論皆馬琴にとつて、余りに虫のいい事ばかりである。が、耳の遠いと云ふ事が、眼の悪いのを苦にしてゐる彼にとつて、幾分の同情を繋ぐ楔子《くさび》になつたのであらう。折角だが御依頼通りになり兼ねると云ふ彼の返事は、寧《むしろ》彼としては、鄭重《ていちよう》を極めてゐた。すると、折返して来た手紙には、始から仕舞まで猛烈な非難の文句の外に、何一つ書いてない。
 自分はあなたの八犬伝と云ひ、巡島記と云ひ、あんな長たらしい、拙劣な読本《よみほん》を根気よく読んであげたが、あなたは私のたつた六冊物の読本に眼を通すのさへ拒《こば》まれた。以てあなたの人格の下等さがわかるでは
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