る事だった。私はふとそれに気がつくと、我知らず眼をその手から外《そ》らさないではいられなかった。
「何か御用ですか。」
私は読みかけた書物を閉じながら、無愛想にこう問いかけた。云うまでもなく私には、彼の唐突な訪問が意外であると共に腹立しかった。と同時にまた別荘番が一言《いちごん》もこの客来《きゃくらい》を取次がないのも不審だった。しかしその男は私の冷淡な言葉にもめげないで、もう一度額を畳につけると、相不変朗読《あいかわらずろうどく》でもしそうな調子で、
「申し遅れましたが、私《わたくし》は中村玄道《なかむらげんどう》と申しますもので、やはり毎日先生の御講演を伺いに出て居りますが、勿論多数の中でございますから、御見覚えもございますまい。どうかこれを御縁にして、今後はまた何分ともよろしく御指導のほどを御願い致します。」
私はここに至って、ようやくこの男の来意が呑みこめたような心もちがした。が、夜中《やちゅう》書見の清興《せいきょう》を破られた事は、依然として不快に違いなかった。
「すると――何か私の講演に質疑でもあると仰有《おっしゃ》るのですか。」
こう尋ねた私は内心ひそかに、「質疑
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