く涙が流れた事は、未だにどうしても忘れられません。

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 中村玄道《なかむらげんどう》はしばらく言葉を切って、臆病《おくびょう》らしい眼を畳《たたみ》へ落した。突然こんな話を聞かされた私も、いよいよ広い座敷の春寒《はるさむ》が襟元まで押寄せたような心もちがして、「成程《なるほど》」と云う元気さえ起らなかった。
 部屋の中には、ただ、ランプの油を吸い上げる音がした。それから机の上に載せた私の懐中時計が、細かく時を刻む音がした。と思うとまたその中で、床の間の楊柳観音《ようりゅうかんのん》が身動きをしたかと思うほど、かすかな吐息《といき》をつく音がした。
 私は悸《おび》えた眼を挙げて、悄然と坐っている相手の姿を見守った。吐息をしたのは彼だろうか。それとも私自身だろうか。――が、その疑問が解けない内に、中村玄道はやはり低い声で、徐《おもむろ》に話を続け出した。

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 申すまでもなく私は、妻の最期を悲しみました。そればかりか、時としては、校長始め同僚から、親切な同
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