々とした黒煙《くろけむり》が一なだれに屋根を渡って、むっと私の顔へ吹きつけました。と思うと、その煙の向うにけたたましく何か爆《は》ぜる音がして、金粉《きんぷん》のような火粉《ひのこ》がばらばらと疎《まば》らに空へ舞い上りました。私は気の違ったように妻へ獅噛《しが》みつきました。そうしてもう一度|無二無三《むにむさん》に、妻の体を梁の下から引きずり出そうと致しました。が、やはり妻の下半身は一寸《いっすん》も動かす事は出来ません。私はまた吹きつけて来る煙を浴びて、庇に片膝つきながら、噛みつくように妻へ申しました。何を? と御尋ねになるかも存じません、いや、必ず御尋ねになりましょう。しかし私も何を申したか、とんと覚えていないのでございます。ただ私はその時妻が、血にまみれた手で私の腕をつかみながら、「あなた。」と一言《ひとこと》申したのを覚えて居ります。私は妻の顔を見つめました。あらゆる表情を失った、眼ばかり徒《いたずら》に大きく見開いている、気味の悪い顔でございます。すると今度は煙ばかりか、火の粉を煽った一陣の火気が、眼も眩《くら》むほど私を襲って来ました。私はもう駄目だと思いました。妻は生
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