最後の一枚の画が私の眼の前に開かれた時――私は今でもその時の驚愕がありあり心に残って居ります。それは落ちて来た梁《はり》に腰を打たれて、一人の女が無惨《むざん》にも悶え苦しんでいる画でございました。その梁の横《よこた》わった向うには、黒煙《くろけむり》が濛々と巻き上って、朱《しゅ》を撥《はじ》いた火の粉さえ乱れ飛んでいるではございませんか。これが私の妻でなくて誰でしょう。妻の最期でなくて何でしょう。私は危く風俗画報を手から落そうと致しました。危く声を挙げて叫ぼうと致しました。しかもその途端に一層私を悸《おび》えさせたのは、突然あたりが赤々と明《あかる》くなって、火事を想わせるような煙の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》がぷんと鼻を打った事でございます。私は強いて心を押し鎮めながら、風俗画報を下へ置いて、きょろきょろ店先を見廻しました。店先ではちょうど小僧が吊《つり》ランプへ火をとぼして、夕暗の流れている往来へ、まだ煙の立つ燐寸殻《マッチがら》を捨てている所だったのでございます。
 それ以来、私は、前よりもさらに幽鬱な人間になってしまいました。今まで私を脅《おびやか》したのはただ何とも知れない不安な心もちでございましたが、その後はある疑惑《ぎわく》が私の頭の中に蟠《わだかま》って、日夜を問わず私を責め虐《さいな》むのでございます。と申しますのは、あの大地震《おおじしん》の時私が妻を殺したのは、果して已《や》むを得なかったのだろうか。――もう一層露骨に申しますと、私は妻を殺したのは、始から殺したい心があって殺したのではなかったろうか。大地震はただ私のために機会を与えたのではなかったろうか、――こう云う疑惑でございました。私は勿論この疑惑の前に、何度思い切って「否《いな》、否。」と答えた事だかわかりません。が、本屋の店先で私の耳に「それだ。それだ。」と囁いた何物かは、その度にまた嘲笑《あざわら》って、「では何故《なぜ》お前は妻を殺した事を口外する事が出来なかったのだ。」と、問い詰《つめ》るのでございます。私はその事実に思い当ると、必ずぎくりと致しました。ああ、何故私は妻を殺したなら殺したと云い放てなかったのでございましょう。何故|今日《きょう》までひた隠しに、それほどの恐しい経験を隠して居ったのでございましょう。
 しかもその際私の記憶へ鮮《あざやか》に生き返って来たものは、当時の私が妻の小夜《さよ》を内心憎んでいたと云う、忌《いま》わしい事実でございます。これは恥を御話しなければ、ちと御会得《ごえとく》が参らないかも存じませんが、妻は不幸にも肉体的に欠陥のある女でございました。(以下八十二行省略)………そこで私はその時までは、覚束《おぼつか》ないながら私の道徳感情がともかくも勝利を博したものと信じて居ったのでございます。が、あの大地震のような凶変《きょうへん》が起って、一切の社会的束縛が地上から姿を隠した時、どうしてそれと共に私の道徳感情も亀裂《きれつ》を生じなかったと申せましょう。どうして私の利己心も火の手を揚げなかったと申せましょう。私はここに立ち至ってやはり妻を殺したのは、殺すために殺したのではなかったろうかと云う、疑惑を認めずには居られませんでした。私がいよいよ幽鬱になったのは、むしろ自然の数《すう》とでも申すべきものだったのでございます。
 しかしまだ私には、「あの場合妻を殺さなかったにしても、妻は必ず火事のために焼け死んだのに相違ない。そうすれば何も妻を殺したのが、特に自分の罪悪だとは云われない筈だ。」と云う一条の血路がございました。所がある日、もう季節が真夏から残暑へ振り変って、学校が始まって居た頃でございますが、私ども教員が一同教員室の卓子《テエブル》を囲んで、番茶を飲みながら、他曖《たわい》もない雑談を交して居りますと、どう云う時の拍子だったか、話題がまたあの二年以前の大地震に落ちた事がございます。私はその時も独り口を噤《つぐ》んだぎりで、同僚《どうりょう》の話を聞くともなく聞き流して居りましたが、本願寺の別院の屋根が落ちた話、船町《ふなまち》の堤防が崩れた話、俵町《たわらまち》の往来の土が裂けた話――とそれからそれへ話がはずみましたが、やがて一人の教員が申しますには、中町《なかまち》とかの備後屋《びんごや》と云う酒屋の女房は、一旦|梁《はり》の下敷になって、身動きも碌《ろく》に出来なかったのが、その内に火事が始って、梁も幸《さいわい》焼け折れたものだから、やっと命だけは拾ったと、こう云うのでございます。私はそれを聞いた時に、俄《にわか》に目の前が暗くなって、そのまましばらくは呼吸さえも止るような心地が致しました。また実際その間は、失心したも同様な姿だったのでございましょう。ようやく我に返っ
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