《しようやうしんぱう》と言ふ新聞に寄す。僕の恬然《てんぜん》と本名を署して文章を公《おほやけ》にせる最初なり。細君の名は雅子《まさこ》、君子《くんし》の好逑《かうきう》と称するは斯《かか》る細君のことなるべし。
 秦豊吉《はたとよきち》 これも高等学校以来の友だちなり。松本幸四郎《まつもとかうしらう》の甥《をひ》。東京の法科大学を出《いで》、今はベルリンの三菱《みつびし》に在り、善良なる都会的才人。あらゆる僕の友人中、最も女に惚《ほ》れられるが如し。尤《もつと》も女に惚れられても、大した損はする男にあらず。永井荷風《ながゐかふう》、ゴンクウル、歌麿等《うたまろら》の信者なりしが、この頃はトルストイなどを担《かつ》ぎ出すことあり。僕にアストラカンの帽子を呉れる約束あれども、未《いま》だに何も送つて呉れず。文を行《や》るに自由なることは文壇の士にも稀なるべし。「ストリントベリイの最後の恋」は二三日に訳了せりと言ふ。
 藤岡蔵六《ふぢをかざうろく》 これも高等学校以来の友だちなり。東京の文科大学を出《いで》、今は法政大学か何かに在り。僕の友だちも多けれども、藤岡位損をした男はまづ外《ほか》にあらざるべし。藤岡の常に損をするは藤岡の悪き訣《わけ》にあらず。只藤岡の理想主義者たる為なり。それも藤岡の祖父に当《あた》る人は川ばたに蹲《うづく》まれる乞食《こじき》を見、さぞ寒からうと思ひし余り、自分も襦袢《じゆばん》一枚になりて厳冬の縁側に坐り込みし為、とうとう風を引いて死にたりと言へば、先祖代々猛烈なる理想主義者と心得《こころう》べし。この理想主義を理解せざる世間は藤岡を目《もく》して辣腕家《らつわんか》と做《な》す。滑稽《こつけい》を通り越して気の毒なり。天下の人は何《なん》と言ふとも、藤岡は断じて辣腕家《らつわんか》にあらず。欺《だま》かし易く、欺かされ易き正直|一図《いちづ》の学者なり。僕の言を疑ふものは、試みにかう考へて見るべし。――芥川龍之介は才人なり。藤岡蔵六は芥川龍之介の旧友なり、その旧友に十五年来欺されてゐる才人ありや否《いな》や。(藤岡蔵六の先輩|知己《ちき》は大抵《たいてい》哲学者や何かなるべければ、三段論法を用ふること斯くの如し。)
 その他|菊池寛《きくちくわん》、久米正雄《くめまさを》、山本有三《やまもというざう》、岡栄一郎《をかえいいちらう》、成瀬正一《なるせしやういち》、松岡譲《まつをかゆづる》、江口渙《えぐちくわん》等も学校友だちなり。然れども是等の友だちのことは既に一度以上書いてゐるか、少くとも諸公百年の後《のち》には何か書かせられる間《あひだ》がら故、此処《ここ》には書かざることとすべし。只|次手《ついで》に書き加へたきは忘れ難き亡友のことなり。
 大島敏夫《おおしまとしを》 これは小学時代の友だちなり。僕も小学時代には頭の大いなる少年なりしも、大島の頭の大いなるには一歩も二歩も遜《ゆづ》りしを記憶す。園芸を好み、文芸をも好みしが、二十《はたち》にもならざるうちに腸結核《ちやうけつかく》に罹《かか》りて死せり。何処《どこ》か老成の風ありしも夭折《えうせつ》する前兆なりしが如し。尤《もつと》も僕は気の毒にも度《たび》たび大島を泣かせては、泣虫泣虫とからかひしものなり。
 平塚逸郎《ひらつかいちらう》 これは中学時代の友だちなり。屡《しばしば》僕と見違へられしと言へば、長面|痩躯《そうく》なることは明らかなるべし。ロマンテイツクなる秀才なりしが、岡山の高等学校へはひりし後《のち》、腎臓結核《じんざうけつかく》に罹《かか》りて死せり。平塚の父は画家なりしよし、その最後の作とか言ふ大幅《たいふく》の地蔵尊を見しことあり。病と共に失恋もし、千葉《ちば》の大原《おほはら》の病院にたつた一人《ひとり》絶命せし故、最も気の毒なる友だちなるべし。一時中学の書記となり、自炊生活を営みし時、「夕月《ゆふづき》に鰺《あぢ》買ふ書記の細さかな」と自《みづか》ら病躯《びやうく》を嘲《あざけ》りしことあり。失恋せる相手も見しことあれども、今は如何《いか》になりしや知らず。
[#地から1字上げ](大正十四年一月)



底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
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