で押し通していましたから、結婚問題に関しても、『僕は愛《アムウル》のない結婚はしたくはない。』と云う調子で、どんな好《い》い縁談が湧いて来ても、惜しげもなく断《ことわ》ってしまうのです。しかもそのまた彼の愛《アムウル》なるものが、一通りの恋愛とは事変って、随分《ずいぶん》彼の気に入っているような令嬢が現れても、『どうもまだ僕の心もちには、不純な所があるようだから。』などと云って、いよいよ結婚と云う所までは中々話が運びません。それが側《はた》で見ていても、余り歯痒《はがゆ》い気がするので、時には私も横合いから、『それは何でも君のように、隅から隅まで自分の心もちを点検してかかると云う事になると、行住坐臥《ぎょうじゅうざが》さえ容易には出来はしない。だからどうせ世の中は理想通りに行かないものだとあきらめて、好《い》い加減な候補者で満足するさ。』と、世話を焼いた事があるのですが、三浦は反《かえ》ってその度に、憐むような眼で私を眺めながら、『そのくらいなら何もこの年まで、僕は独身で通しはしない。』と、まるで相手にならないのです。が、友だちはそれで黙っていても、親戚の身になって見ると、元来病弱な彼ではあるし、万一血統を絶《た》やしてはと云う心配もなくはないので、せめて権妻《ごんさい》でも置いたらどうだと勧《すす》めた向きもあったそうですが、元よりそんな忠告などに耳を借すような三浦ではありません。いや、耳を借さない所か、彼はその権妻《ごんさい》と云う言《ことば》が大嫌いで、日頃から私をつかまえては、『何しろいくら開化したと云った所で、まだ日本では妾《めかけ》と云うものが公然と幅を利《き》かせているのだから。』と、よく哂《わら》ってはいたものなのです。ですから帰朝後二三年の間、彼は毎日あのナポレオン一世を相手に、根気よく読書しているばかりで、いつになったら彼の所謂《いわゆる》『愛《アムウル》のある結婚』をするのだか、とんと私たち友人にも見当のつけようがありませんでした。
「ところがその中に私はある官辺の用向きで、しばらく韓国《かんこく》京城《けいじょう》へ赴任《ふにん》する事になりました。すると向うへ落ち着いてから、まだ一月と経たない中に、思いもよらず三浦から結婚の通知が届いたじゃありませんか。その時の私の驚きは、大抵御想像がつきましょう。が、驚いたと同時に私は、いよいよ彼にもその愛《アムウル》の相手が出来たのだなと思うと、さすがに微笑せずにはいられませんでした。通知の文面は極《ごく》簡単なもので、ただ、藤井勝美《ふじいかつみ》と云う御用商人の娘と縁談が整《ととの》ったと云うだけでしたが、その後引続いて受取った手紙によると、彼はある日散歩のついでにふと柳島《やなぎしま》の萩寺《はぎでら》へ寄った所が、そこへ丁度彼の屋敷へ出入りする骨董屋《こっとうや》が藤井の父子《おやこ》と一しょに詣《まい》り合せたので、つれ立って境内《けいだい》を歩いている中に、いつか互に見染《みそ》めもし見染められもしたと云う次第なのです。何しろ萩寺と云えば、その頃はまだ仁王門《におうもん》も藁葺《わらぶき》屋根で、『ぬれて行く人もをかしや雨の萩《はぎ》』と云う芭蕉翁《ばしょうおう》の名高い句碑が萩の中に残っている、いかにも風雅な所でしたから、実際才子佳人の奇遇《きぐう》には誂《あつら》え向きの舞台だったのに違いありません。しかしあの外出する時は、必ず巴里《パリイ》仕立ての洋服を着用した、どこまでも開化の紳士を以て任じていた三浦にしては、余り見染め方が紋切型《もんきりがた》なので、すでに結婚の通知を読んでさえ微笑した私などは、いよいよ擽《くすぐ》られるような心もちを禁ずる事が出来ませんでした。こう云えば勿論縁談の橋渡しには、その骨董屋のなったと云う事も、すぐに御推察が参るでしょう。それがまた幸《さいわ》いと、即座に話がまとまって、表向きの仲人《なこうど》を拵《こしら》えるが早いか、その秋の中に婚礼も滞《とどこお》りなくすんでしまったのです。ですから夫婦仲の好かった事は、元より云うまでもないでしょうが、殊に私が可笑《おか》しいと同時に妬《ねた》ましいような気がしたのは、あれほど冷静な学者肌の三浦が、結婚後は近状を報告する手紙の中でも、ほとんど別人のような快活さを示すようになった事でした。
「その頃の彼の手紙は、今でも私《わたし》の手もとに保存してありますが、それを一々読み返すと、当時の彼の笑い顔が眼に見えるような心もちがします。三浦は子供のような喜ばしさで、彼の日常生活の細目《さいもく》を根気よく書いてよこしました。今年は朝顔の培養《ばいよう》に失敗した事、上野《うえの》の養育院の寄附を依頼された事、入梅《にゅうばい》で書物が大半|黴《か》びてしまった事、抱《かか》えの車夫が破傷風《はしょうふう》になった事、都座《みやこざ》の西洋手品を見に行った事、蔵前《くらまえ》に火事があった事――一々数え立てていたのでは、とても際限がありませんが、中でも一番嬉しそうだったのは、彼が五姓田芳梅《ごぜたほうばい》画伯に依頼して、細君の肖像画《しょうぞうが》を描《か》いて貰ったと云う一条です。その肖像画は彼が例のナポレオン一世の代りに、書斎の壁へ懸けて置きましたから、私も後《のち》に見ましたが、何でも束髪《そくはつ》に結《ゆ》った勝美婦人《かつみふじん》が毛金《けきん》の繍《ぬいとり》のある黒の模様で、薔薇《ばら》の花束を手にしながら、姿見の前に立っている所を、横顔《プロフィイル》に描いたものでした。が、それは見る事が出来ても、当時の快活な三浦自身は、とうとう永久に見る事が出来なかったのです。……」
本多子爵《ほんだししゃく》はこう云って、かすかな吐息《といき》を洩しながら、しばらくの間口を噤《つぐ》んだ。じっとその話に聞き入っていた私は、子爵が韓国《かんこく》京城《けいじょう》から帰った時、万一三浦はもう物故《ぶっこ》していたのではないかと思って、我知らず不安の眼を相手の顔に注《そそ》がずにはいられなかった。すると子爵は早くもその不安を覚ったと見えて、徐《おもむろ》に頭を振りながら、
「しかし何もこう云ったからと云って、彼が私《わたし》の留守中《るすちゅう》に故人になったと云う次第じゃありません。ただ、かれこれ一年ばかり経って、私が再び内地へ帰って見ると、三浦はやはり落ち着き払った、むしろ以前よりは幽鬱《ゆううつ》らしい人間になっていたと云うだけです。これは私があの新橋《しんばし》停車場でわざわざ迎えに出た彼と久闊《きゅうかつ》の手を握り合った時、すでに私には気がついていた事でした。いや恐らくは気がついたと云うよりも、その冷静すぎるのが気になったとでもいうべきなのでしょう。実際その時私は彼の顔を見るが早いか、何よりも先に『どうした。体でも悪いのじゃないか。』と尋《たず》ねたほど、意外な感じに打たれました。が、彼は反《かえ》って私の怪しむのを不審がりながら、彼ばかりでなく彼の細君も至極健康だと答えるのです。そう云われて見れば、成程一年ばかりの間に、いくら『愛《アムウル》のある結婚』をしたからと云って、急に彼の性情が変化する筈もないと思いましたから、それぎり私も別段気にとめないで、『じゃ光線のせいで顔色がよくないように見えたのだろう』と、笑って済ませてしまいました。それが追々《おいおい》笑って済ませなくなるまでには、――この幽鬱な仮面《かめん》に隠れている彼の煩悶《はんもん》に感づくまでには、まだおよそ二三箇月の時間が必要だったのです。が、話の順序として、その前に一通り、彼の細君の人物を御話しして置く必要がありましょう。
「私が始めて三浦の細君に会ったのは、京城から帰って間もなく、彼の大川端《おおかわばた》の屋敷へ招かれて、一夕の饗応《きょうおう》に預った時の事です。聞けば細君はかれこれ三浦と同年配だったそうですが、小柄ででもあったせいか、誰の眼にも二つ三つ若く見えたのに相違ありません。それが眉の濃い、血色|鮮《あざやか》な丸顔で、その晩は古代蝶鳥《こだいちょうとり》の模様か何かに繻珍《しゅちん》の帯をしめたのが、当時の言《ことば》を使って形容すれば、いかにも高等な感じを与えていました。が、三浦の愛《アムウル》の相手として、私が想像に描いていた新夫人に比べると、どこかその感じにそぐわない所があるのです。もっともこれはどこかと云うくらいな事で、私自身にもその理由がはっきりとわかっていた訳じゃありません。殊に私の予想が狂うのは、今度三浦に始めて会った時を始めとして、度々経験した事ですから、勿論その時もただふとそう思っただけで、別段それだから彼の結婚を祝する心が冷却したと云う訳でもなかったのです。それ所か、明《あかる》い空気|洋燈《ランプ》の光を囲んで、しばらく膳に向っている間《あいだ》に、彼の細君の溌剌《はつらつ》たる才気は、すっかり私を敬服させてしまいました。俗に打てば響くと云うのは、恐らくあんな応対《おうたい》の仕振りの事を指すのでしょう。『奥さん、あなたのような方は実際日本より、仏蘭西《フランス》にでも御生れになればよかったのです。』――とうとう私は真面目《まじめ》な顔をして、こんな事を云う気にさえなりました。すると三浦も盃《さかずき》を含みながら、『それ見るが好《い》い。己《おれ》がいつも云う通りじゃないか。』と、からかうように横槍《よこやり》を入れましたが、そのからかうような彼の言《ことば》が、刹那の間《あいだ》私の耳に面白くない響を伝えたのは、果して私の気のせいばかりだったでしょうか。いや、この時半ば怨ずる如く、斜《ななめ》に彼を見た勝美《かつみ》夫人の眼が、余りに露骨な艶《なまめ》かしさを裏切っているように思われたのは、果して私の邪推ばかりだったでしょうか。とにかく私はこの短い応答の間に、彼等二人の平生が稲妻のように閃くのを、感じない訳には行かなかったのです。今思えばあれは私にとって、三浦の生涯の悲劇に立ち合った最初の幕開《まくあ》きだったのですが、当時は勿論私にしても、ほんの不安の影ばかりが際《きわ》どく頭を掠《かす》めただけで、後はまた元の如く、三浦を相手に賑な盃《さかずき》のやりとりを始めました。ですからその夜は文字通り一夕の歓《かん》を尽した後で、彼の屋敷を辞した時も、大川端《おおかわばた》の川風に俥上の微醺《びくん》を吹かせながら、やはり私は彼のために、所謂《いわゆる》『愛《アムウル》のある結婚』に成功した事を何度もひそかに祝したのです。
「ところがそれから一月ばかり経って(元より私はその間も、度々彼等夫婦とは往来《ゆきき》し合っていたのです。)ある日私が友人のあるドクトルに誘われて、丁度|於伝仮名書《おでんのかなぶみ》をやっていた新富座《しんとみざ》を見物に行きますと、丁度向うの桟敷《さじき》の中ほどに、三浦の細君が来ているのを見つけました。その頃私は芝居へ行く時は、必ず眼鏡《オペラグラス》を持って行ったので、勝美《かつみ》夫人もその円《まる》い硝子《ガラス》の中に、燃え立つような掛毛氈《かけもうせん》を前にして、始めて姿を見せたのです。それが薔薇《ばら》かと思われる花を束髪《そくはつ》にさして、地味な色の半襟の上に、白い二重顋《ふたえあご》を休めていましたが、私がその顔に気がつくと同時に、向うも例の艶《なまめか》しい眼をあげて、軽く目礼を送りました。そこで私も眼鏡《オペラグラス》を下しながら、その目礼に答えますと、三浦の細君はどうしたのか、また慌てて私の方へ会釈《えしゃく》を返すじゃありませんか。しかもその会釈が、前のそれに比べると、遥に恭《うやうや》しいものなのです。私はやっと最初の目礼が私に送られたのではなかったと云う事に気がつきましたから、思わず周囲の高土間《たかどま》を見まわして、その挨拶の相手を物色しました。するとすぐ隣の桝《ます》に派手《はで》な縞の背広を着た若い男がいて、これも勝美夫人の会釈の相手をさがす心算《つもり》だったのでしょう。
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