の銀の握りで、芳年の浮世絵を一《ひと》つ一《ひと》つさし示しながら、相不変《あいかわらず》低い声で、
「殊に私《わたし》などはこう云う版画を眺めていると、三四十年|前《まえ》のあの時代が、まだ昨日《きのう》のような心もちがして、今でも新聞をひろげて見たら、鹿鳴館《ろくめいかん》の舞踏会の記事が出ていそうな気がするのです。実を云うとさっきこの陳列室へはいった時から、もう私はあの時代の人間がみんなまた生き返って、我々の眼にこそ見えないが、そこにもここにも歩いている。――そうしてその幽霊《ゆうれい》が時々我々の耳へ口をつけて、そっと昔の話を囁いてくれる。――そんな怪しげな考えがどうしても念頭を離れないのです。殊に今の洋服を着た菊五郎などは、余りよく私の友だちに似ているので、あの似顔絵《にがおえ》の前に立った時は、ほとんど久闊《きゅうかつ》を叙《じょ》したいくらい、半ば気味の悪い懐しささえ感じました。どうです。御嫌《おいや》でなかったら、その友だちの話でも聞いて頂くとしましょうか。」
本多子爵はわざと眼を外《そ》らせながら、私の気をかねるように、落着かない調子でこう云った。私は先達《せんだって》子爵と会った時に、紹介の労を執《と》った私の友人が、「この男は小説家ですから、何か面白い話があった時には、聞かせてやって下さい。」と頼んだのを思い出した。また、それがないにしても、その時にはもう私も、いつか子爵の懐古的な詠歎《えいたん》に釣りこまれて、出来るなら今にも子爵と二人で、過去の霧の中に隠れている「一等|煉瓦《レンガ》」の繁華な市街へ、馬車を駆りたいとさえ思っていた。そこで私は頭を下げながら、喜んで「どうぞ」と相手を促した。
「じゃあすこへ行きましょう。」
子爵の言《ことば》につれて我々は、陳列室のまん中に据えてあるベンチへ行って、一しょに腰を下ろした。室内にはもう一人も人影は見えなかった。ただ、周囲には多くの硝子戸棚《ガラスとだな》が、曇天の冷《つめた》い光の中に、古色を帯びた銅版画や浮世絵を寂然《じゃくねん》と懸け並べていた。本多子爵は杖の銀の握りに頤《あご》をのせて、しばらくはじっとこの子爵自身の「記憶」のような陳列室を見渡していたが、やがて眼を私の方に転じると、沈んだ声でこう語り出した。
「その友だちと云うのは、三浦直樹《みうらなおき》と云う男で、私《わたし》が仏
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