《しゆとういつすゐ》、画楼簾裡《ぐわろうれんり》に黯淡《あんたん》たるの処、本多子爵と予とが杯《はい》を含んで、満村を痛罵せし当時を思へば、予は今に至つて自《おのづか》ら肉動くの感なきを得ず。されど同時に又、当夜人力車に乗じて、柏屋より帰るの途、本多子爵と明子との旧契を思ひて、一種名状す可らざる悲哀を感ぜしも、予は猶|明《あきらか》に記憶する所なり。請ふ。再び予が日記を引用するを許せ。「予は今夕本多子爵と会してより、愈《いよいよ》旬日の間に満村恭平を殺害す可しと決心したり。子爵の口吻より察するに、彼と明子とは、独り許嫁の約ありしのみならず、又実に相愛の情を抱きたるものの如し。(予は今日にして、子爵の独身生活の理由を発見し得たるを覚ゆ)若し予にして満村を殺害せんか、子爵と明子とが伉儷《かうれい》を完《まつた》うせんは、必しも難事にあらず。偶《たまたま》明子の満村に嫁して、未《いまだ》一児を挙げざるは、恰《あたか》も天意亦予が計画を扶《たす》くるに似たるの観あり。予はかの獣心の巨紳を殺害するの結果、予の親愛なる子爵と明子とが、早晩幸福なる生活に入らんとするを思ひ、自《おのづか》ら口辺の微笑を禁ずる事能はず。」
今や予が殺人の計画は、一転して殺人の実行に移らんとす。予は幾度か周密なる思慮に思慮を重ねたるの後、漸《やうや》くにして満村を殺害す可き適当なる場所と手段とを選定したり。その何処《いづこ》にして何なりしかは、敢て詳細なる叙述を試みるの要なかる可し。卿等にして猶明治十二年六月十二日、独逸《ドイツ》皇孫殿下が新富座に於て日本劇を見給ひしの夜、彼、満村恭平が同|戯場《ぎぢやう》よりその自邸に帰らんとするの途次、馬車中に於て突如病死したる事実を記憶せんか、予は新富座に於て満村の血色|宜《よろ》しからざる由を説き、これに所持の丸薬の服用を勧誘したる、一個壮年のドクトルありしを語れば足る。嗚呼、卿等請ふ、そのドクトルの面《おもて》を想像せよ。彼は※[#「壘」の「土」に代えて「糸」、第3水準1−90−24]々《るゐるゐ》たる紅球燈の光を浴びて、新富座の木戸口に佇《たたず》みつつ、霖雨の中に奔馳《ほんち》し去る満村の馬車を目送するや、昨日の憤怨、今日の歓喜、均《ひと》しく胸中に蝟集《ゐしふ》し来り、笑声|嗚咽《をえつ》共に唇頭《しんとう》に溢れんとして、殆《ほとんど》処の何処《いづこ》たる、時の何時《なんどき》たるを忘却したりき。しかもその彼が且泣き且笑ひつつ、蕭雨《せうう》を犯し泥濘《でいねい》を踏んで、狂せる如く帰途に就きしの時、彼の呟《つぶや》いて止めざりしものは明子の名なりしをも忘るる事勿れ。――「予は終夜眠らずして、予が書斎を徘徊《はいくわい》したり。歓喜か、悲哀か、予はそを明にする能はず。唯、或云ひ難き強烈なる感情は、予の全身を支配して、一霎時《いつせふじ》たりと雖《いへど》も、予をして安坐せざらしむるを如何《いかん》。予が卓上には三鞭酒《シヤンペンしゆ》あり。薔薇の花あり。而して又かの丸薬の箱あり。予は殆《ほとんど》、天使と悪魔とを左右にして、奇怪なる饗宴を開きしが如くなりき……。」
予は爾来《じらい》数ヶ月の如く、幸福なる日子《につし》を閲《けみ》せし事あらず。満村の死因は警察医によりて、予の予想と寸分の相違もなく、脳出血の病名を与へられ、即刻地下六尺の暗黒に、腐肉を虫蛆《ちうそ》の食としたるが如し。既に然り、誰か又予を目して、殺人犯の嫌疑ありと做《な》すものあらん。しかも仄聞《そくぶん》する所によれば、明子はその良人の死に依りて、始めて蘇色ありと云ふにあらずや。予は満面の喜色を以て予の患者を診察し、閑《ひま》あれば即《すなはち》本多子爵と共に、好んで劇を新富座に見たり。是全く予にとりては、予が最後の勝利を博せし、光栄ある戦場として、屡《しばしば》その花瓦斯《はなガス》とその掛毛氈《かけまうせん》とを眺めんとする、不思議なる欲望を感ぜしが為のみ。
然れどもこは真に、数ヶ月の間なりき。この幸福なる数ヶ月の経過すると共に、予は漸次予が生涯中最も憎む可き誘惑と闘ふ可き運命に接近しぬ。その闘《たたかひ》の如何に酷烈を極めたるか、如何に歩々《ほほ》予を死地に駆逐したるか。予は到底|茲《ここ》に叙説するの勇気なし。否、この遺書を認《したた》めつつある現在さへも、予は猶この水蛇《ハイドラ》の如き誘惑と、死を以て闘はざる可らず。卿等にして若し、予が煩悶の跡を見んと欲せば、請ふ、以下に抄録せんとする予が日記を一瞥《いちべつ》せよ。
「十月×日、明子、子なきの故を以て満村家を去る由、予は近日本多子爵と共に、六年ぶりにて彼女と会見す可し。帰朝以来、始《はじめ》予は彼女を見るの己《おのれ》の為に忍びず、後は彼女を見るの彼女の為に忍びずして、遂に
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