二

 ……一時間ばかりたった後《のち》、手拭《てぬぐい》を頭に巻きつけた僕等は海水帽に貸下駄《かしげた》を突っかけ、半町ほどある海へ泳《およ》ぎに行った。道は庭先をだらだら下りると、すぐに浜へつづいていた。
「泳げるかな?」
「きょうは少し寒いかも知れない。」
 僕等は弘法麦《こうぼうむぎ》の茂みを避《よ》け避け、(滴《しずく》をためた弘法麦の中へうっかり足を踏み入れると、ふくら脛《はぎ》の痒《かゆ》くなるのに閉口したから。)そんなことを話して歩いて行った。気候は海へはいるには涼し過ぎるのに違いなかった。けれども僕等は上総《かずさ》の海に、――と言うよりもむしろ暮れかかった夏に未練《みれん》を持っていたのだった。
 海には僕等の来た頃《ころ》は勿論《もちろん》、きのうさえまだ七八人の男女《なんにょ》は浪乗《なみの》りなどを試みていた。しかしきょうは人かげもなければ、海水浴区域を指定する赤旗《あかはた》も立っていなかった。ただ広びろとつづいた渚《なぎさ》に浪の倒れているばかりだった。葭簾囲《よしずがこ》いの着もの脱《ぬ》ぎ場にも、――そこには茶色の犬が一匹、細《こま》かい羽虫《はむし》の群《む》れを追いかけていた。が、それも僕等を見ると、すぐに向うへ逃げて行ってしまった。
 僕は下駄だけは脱いだものの、とうてい泳ぐ気にはなれなかった。しかしMはいつのまにか湯帷子《ゆかた》や眼鏡《めがね》を着もの脱ぎ場へ置き、海水帽の上へ頬《ほお》かぶりをしながら、ざぶざぶ浅瀬《あさせ》へはいって行った。
「おい、はいる気かい?」
「だってせっかく来たんじゃないか?」
 Mは膝ほどある水の中に幾分《いくぶん》か腰をかがめたなり、日に焼けた笑顔《わらいがお》をふり向けて見せた。
「君もはいれよ。」
「僕は厭《いや》だ。」
「へん、『嫣然《えんぜん》』がいりゃはいるだろう。」
「莫迦《ばか》を言え。」
「嫣然」と言うのはここにいるうちに挨拶《あいさつ》ぐらいはし合うようになったある十五六の中学生だった。彼は格別美少年ではなかった。しかしどこか若木《わかぎ》に似た水々しさを具えた少年だった。ちょうど十日ばかり以前のある午後、僕等は海から上《あが》った体を熱い砂の上へ投げ出していた。そこへ彼も潮《しお》に濡れたなり、すたすた板子《いたご》を引きずって来た。が、ふと彼の足もとに僕等の転《ころ》がっているのを見ると、鮮《あざや》かに歯を見せて一笑した。Mは彼の通り過ぎた後《のち》、ちょっと僕に微苦笑《びくしょう》を送り、
「あいつ、嫣然《えんぜん》として笑ったな。」と言った。それ以来彼は僕等の間《あいだ》に「嫣然」と言う名を得ていたのだった。
「どうしてもはいらないか?」
「どうしてもはいらない。」
「イゴイストめ!」
 Mは体を濡《ぬ》らし濡らし、ずんずん沖《おき》へ進みはじめた。僕はMには頓着《とんじゃく》せず、着もの脱ぎ場から少し離れた、小高い砂山の上へ行った。それから貸下駄を臀《しり》の下に敷き、敷島《しきしま》でも一本吸おうとした。しかし僕のマツチの火は存外強い風のために容易に巻煙草に移らなかった。
「おうい。」
 Mはいつ引っ返したのか、向うの浅瀬に佇《たたず》んだまま、何か僕に声をかけていた。けれども生憎《あいにく》その声も絶え間《ま》のない浪《なみ》の音のためにはっきり僕の耳へはいらなかった。
「どうしたんだ?」
 僕のこう尋ねた時にはMはもう湯帷子《ゆかた》を引っかけ、僕の隣に腰を下ろしていた。
「何、水母《くらげ》にやられたんだ。」
 海にはこの数日来、俄《にわか》に水母が殖《ふ》えたらしかった。現に僕もおとといの朝、左の肩から上膊《じょうはく》へかけてずっと針の痕《あと》をつけられていた。
「どこを?」
「頸《くび》のまわりを。やられたなと思ってまわりを見ると、何匹も水の中に浮いているんだ。」
「だから僕ははいらなかったんだ。」
「※[#「言+虚」、第4水準2−88−74]《うそ》をつけ。――だがもう海水浴もおしまいだな。」
 渚《なぎさ》はどこも見渡す限り、打ち上げられた海草《かいそう》のほかは白《しら》じらと日の光に煙っていた。そこにはただ雲の影の時々|大走《おおばし》りに通るだけだった。僕等は敷島を啣《くわ》えながら、しばらくは黙ってこう言う渚に寄せて来る浪を眺めていた。
「君は教師の口はきまったのか?」
 Mは唐突《いきなり》とこんなことを尋ねた。
「まだだ。君は?」
「僕か? 僕は……」
 Mの何か言いかけた時、僕等は急に笑い声やけたたましい足音に驚かされた。それは海水着に海水帽をかぶった同年輩《どうねんぱい》の二人《ふたり》の少女だった。彼等はほとんど傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に僕等の側を通り抜けながら、
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