のはたった一人《ひとり》海水帽をかぶった、背の高いHだった。
「海蛇か? 海蛇はほんとうにこの海にもいるさ。」
「今頃もか?」
「何、滅多《めった》にゃいないんだ。」
僕等は四人とも笑い出した。そこへ向うからながらみ[#「ながらみ」に傍点]取りが二人《ふたり》、(ながらみ[#「ながらみ」に傍点]と言うのは螺《にし》の一種である。)魚籃《びく》をぶら下《さ》げて歩いて来た。彼等は二人とも赤褌《あかふんどし》をしめた、筋骨《きんこつ》の逞《たくま》しい男だった。が、潮《しお》に濡れ光った姿はもの哀れと言うよりも見すぼらしかった。Nさんは彼等とすれ違う時、ちょっと彼等の挨拶《あいさつ》に答え、「風呂《ふろ》にお出《い》で」と声をかけたりした。
「ああ言う商売もやり切れないな。」
僕は何か僕自身もながらみ[#「ながらみ」に傍点]取りになり兼ねない気がした。
「ええ、全くやり切れませんよ。何しろ沖へ泳いで行っちゃ、何度も海の底へ潜《もぐ》るんですからね。」
「おまけに澪《みお》に流されたら、十中八九は助からないんだよ。」
Hは弓の折れの杖を振り振り、いろいろ澪の話をした。大きい澪は渚から一里半も沖へついている、――そんなことも話にまじっていた。
「そら、Hさん、ありゃいつでしたかね、ながらみ[#「ながらみ」に傍点]取りの幽霊《ゆうれい》が出るって言ったのは?」
「去年――いや、おととしの秋だ。」
「ほんとうに出たの?」
HさんはMに答える前にもう笑い声を洩《も》らしていた。
「幽霊じゃなかったんです。しかし幽霊が出るって言ったのは磯《いそ》っ臭い山のかげの卵塔場《らんとうば》でしたし、おまけにそのまたながらみ[#「ながらみ」に傍点]取りの死骸《しがい》は蝦《えび》だらけになって上《あが》ったもんですから、誰でも始めのうちは真《ま》に受けなかったにしろ、気味悪がっていたことだけは確かなんです。そのうちに海軍の兵曹上《へいそうあが》りの男が宵のうちから卵塔場に張りこんでいて、とうとう幽霊を見とどけたんですがね。とっつかまえて見りゃ何のことはない。ただそのながらみ[#「ながらに」に傍点]取りと夫婦約束をしていたこの町の達磨茶屋《だるまぢゃや》の女だったんです。それでも一時は火が燃えるの人を呼ぶ声が聞えるのって、ずいぶん大騒《おおさわ》ぎをしたもんですよ。」
「じゃ別段その女は人を嚇《おど》かす気で来ていたんじゃないの?」
「ええ、ただ毎晩十二時前後にながらみ[#「ながらみ」に傍点]取りの墓の前へ来ちゃ、ぼんやり立っていただけなんです。」
Nさんの話はこう言う海辺《うみべ》にいかにもふさわしい喜劇だった。が、誰も笑うものはなかった。のみならず皆なぜともなしに黙って足ばかり運んでいた。
「さあこの辺《へん》から引っ返すかな。」
僕等はMのこう言った時、いつのまにかもう風の落ちた、人気《ひとけ》のない渚《なぎさ》を歩いていた。あたりは広い砂の上にまだ千鳥《ちどり》の足跡《あしあと》さえかすかに見えるほど明るかった。しかし海だけは見渡す限り、はるかに弧《こ》を描《えが》いた浪打ち際に一すじの水沫《みなわ》を残したまま、一面に黒ぐろと暮れかかっていた。
「じや失敬。」
「さようなら。」
HやNさんに別れた後《のち》、僕等は格別急ぎもせず、冷びえした渚を引き返した。渚には打ち寄せる浪の音のほかに時々澄み渡った蜩《ひぐらし》の声も僕等の耳へ伝わって来た。それは少くとも三町は離れた松林に鳴いている蜩だった。
「おい、M!」
僕はいつかMより五六歩あとに歩いていた。
「何だ?」
「僕等ももう東京へ引き上げようか?」
「うん、引き上げるのも悪くはないな。」
それからMは気軽そうにティッペラリイの口笛を吹きはじめた。
[#地から1字上げ](大正十四年八月七日)
底本:「芥川龍之介全集6」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年3月24日第1刷発行
1993(平成5)年2月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:大野晋
1999年1月7日公開
2004年3月9日修正
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