いつか彼女の心の中には、狂暴な野性が動いていた。それは彼女が身を売るまでに、邪慳《じゃけん》な継母《ままはは》との争いから、荒《すさ》むままに任せた野性だった。白粉《おしろい》が地肌《じはだ》を隠したように、この数年間の生活が押し隠していた野性だった。………
「牧野め。鬼め。二度の日の目は見せないから、――」
お蓮は派手な長襦袢《ながじゅばん》の袖に、一挺の剃刀を蔽《おお》ったなり、鏡台の前に立ち上った。
すると突然かすかな声が、どこからか彼女の耳へはいった。
「御止《およ》し。御止し。」
彼女は思わず息を呑んだ。が、声だと思ったのは、時計の振子《ふりこ》が暗い中に、秒を刻んでいる音らしかった。
「御止し。御止し。御止し。」
しかし梯子《はしご》を上《あが》りかけると、声はもう一度お蓮を捉《とら》えた。彼女はそこへ立ち止りながら、茶の間《ま》の暗闇を透かして見た。
「誰だい?」
「私。私だ。私。」
声は彼女と仲が好《よ》かった、朋輩の一人に違いなかった。
「一枝《いっし》さんかい?」
「ああ、私。」
「久しぶりだねえ。お前さんは今どこにいるの?」
お蓮はいつか長火鉢の前へ、昼間のように坐っていた。
「御止《およ》し。御止しよ。」
声は彼女の問に答えず、何度も同じ事を繰返すのだった。
「何故《なぜ》またお前さんまでが止めるのさ? 殺したって好いじゃないか?」
「お止し。生きているもの。生きているよ。」
「生きている? 誰が?」
そこに長い沈黙があった。時計はその沈黙の中にも、休みない振子《ふりこ》を鳴らしていた。
「誰が生きているのさ?」
しばらく無言《むごん》が続いた後《のち》、お蓮がこう問い直すと、声はやっと彼女の耳に、懐しい名前を囁《ささや》いてくれた。
「金《きん》――金さん。金さん。」
「ほんとうかい? ほんとうなら嬉しいけれど、――」
お蓮は頬杖《ほおづえ》をついたまま、物思わしそうな眼つきになった。
「だって金《きん》さんが生きているんなら、私に会いに来そうなもんじゃないか?」
「来るよ。来るとさ。」
「来るって? いつ?」
「明日《あした》。弥勒寺《みろくじ》へ会いに来るとさ。弥勒寺へ。明日《あした》の晩。」
「弥勒寺って、弥勒寺橋だろうねえ。」
「弥勒寺橋へね。夜来る。来るとさ。」
それぎり声は聞こえなくなった。が、長襦袢《なが
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