うけん》さ。」
お蓮はくすくす笑い出した。
「笑い事じゃないぜ。ここにいる事が知れた日にゃ、明日《あした》にも押しかけて来ないものじゃない。」
牧野の言葉には思いのほか、真面目《まじめ》そうな調子も交《まじ》っていた。
「そうしたら、その時の事ですわ。」
「へええ、ひどくまた度胸《どきょう》が好《い》いな。」
「度胸が好い訳じゃないんです。私《わたし》の国の人間は、――」
お蓮は考え深そうに、長火鉢の炭火《すみび》へ眼を落した。
「私の国の人間は、みんな諦《あきら》めが好いんです。」
「じゃお前は焼かないと云う訳か?」
牧野の眼にはちょいとの間《あいだ》、狡猾《こうかつ》そうな表情が浮んだ。
「おれの国の人間は、みんな焼くよ。就中《なかんずく》おれなんぞは、――」
そこへ婆さんが勝手から、あつらえ物の蒲焼《かばやき》を運んで来た。
その晩牧野は久しぶりに、妾宅へ泊って行く事になった。
雨は彼等が床《とこ》へはいってから、霙《みぞれ》の音に変り出した。お蓮は牧野が寝入った後《のち》、何故《なぜ》かいつまでも眠られなかった。彼女の冴《さ》えた眼の底には、見た事のない牧野の妻が、いろいろな姿を浮べたりした。が、彼女は同情は勿論、憎悪《ぞうお》も嫉妬《しっと》も感じなかった。ただその想像に伴うのは、多少の好奇心ばかりだった。どう云う夫婦喧嘩をするのかしら。――お蓮は戸の外の藪や林が、霙にざわめくのを気にしながら、真面目にそんな事も考えて見た。
それでも二時を聞いてしまうと、ようやく眠気《ねむけ》がきざして来た。――お蓮はいつか大勢《おおぜい》の旅客と、薄暗い船室に乗り合っている。円い窓から外を見ると、黒い波の重《かさ》なった向うに、月だか太陽だか判然しない、妙に赤光《あかびかり》のする球《たま》があった。乗合いの連中はどうした訳か、皆影の中に坐ったまま、一人も口を開くものがない。お蓮はだんだんこの沈黙が、恐しいような気がし出した。その内に誰かが彼女の後《うしろ》へ、歩み寄ったらしいけはいがする。彼女は思わず振り向いた。すると後には別れた男が、悲しそうな微笑を浮べながら、じっと彼女を見下している。………
「金《きん》さん。」
お蓮は彼女自身の声に、明《あ》け方の眠から覚まされた。牧野はやはり彼女の隣に、静かな呼吸を続けていたが、こちらへ背中を向けた彼が、実際
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