車へ乗るのさえかまわなければ。」
「あなたの方じゃ少し遠すぎるんです。あの辺は借家もあるそうですね、家内[#「家内」に傍点]はあの辺を希望しているんですが――おや、堀川さん。靴《くつ》が焦《こ》げやしませんか?」
 保吉の靴はいつのまにかストオヴの胴に触れていたと見え、革の焦げる臭気と共にもやもや水蒸気を昇らせていた。
「それも君、やっぱり伝熱作用だよ。」
 宮本は眼鏡《めがね》を拭いながら、覚束《おぼつか》ない近眼《きんがん》の額《ひたい》ごしににやりと保吉へ笑いかけた。

       ×          ×          ×

 それから四五日たった後《のち》、――ある霜曇《しもぐも》りの朝だった。保吉は汽車を捉《とら》えるため、ある避暑地の町はずれを一生懸命に急いでいた。路の右は麦畑、左は汽車の線路のある二間ばかりの堤《つつみ》だった。人っ子一人いない麦畑はかすかな物音に充ち満ちていた。それは誰か麦の間を歩いている音としか思われなかった、しかし事実は打ち返された土の下にある霜柱のおのずから崩《くず》れる音らしかった。
 その内に八時の上《のぼ》り列車は長い汽笛を鳴らしながら、余り速力を早めずに堤の上を通り越した。保吉の捉える下《くだ》り列車はこれよりも半時間遅いはずだった。彼は時計を出して見た。しかし時計はどうしたのか、八時十五分になりかかっていた。彼はこの時刻の相違を時計の罪だと解釈《かいしゃく》した。「きょうは乗り遅れる心配はない。」――そんなことも勿論思ったりした。路に隣った麦畑はだんだん生垣《いけがき》に変り出した。保吉は「朝日《あさひ》」を一本つけ、前よりも気楽に歩いて行った。
 石炭殻《せきたんがら》などを敷いた路は爪先上《つまさきあが》りに踏切りへ出る、――そこへ何気《なにげ》なしに来た時だった。保吉は踏切りの両側《りょうがわ》に人だかりのしているのを発見した。轢死《れきし》だなとたちまち考えもした。幸い踏切りの柵《さく》の側に、荷をつけた自転車を止めているのは知り合いの肉屋の小僧だった。保吉は巻煙草《まきたばこ》を持った手に、後《うし》ろから小僧の肩を叩いた。
「おい、どうしたんだい?」
「轢《し》かれたんです。今の上《のぼ》りに轢かれたんです。」
 小僧は早口にこう云った。兎の皮の耳袋《みみぶくろ》をした顔も妙に生き生きと赫《かがや》いていた。
「誰が轢かれたんだい?」
「踏切り番です。学校の生徒の轢かれそうになったのを助けようと思って轢かれたんです。ほら、八幡前《はちまんまえ》に永井《ながい》って本屋があるでしょう? あすこの女の子が轢かれる所だったんです。」
「その子供は助かったんだね?」
「ええ、あすこに泣いているのがそうです。」
「あすこ」というのは踏切りの向う側にいる人だかりだった。なるほど、そこには女の子が一人、巡査に何か尋《たず》ねられていた。その側には助役《じょやく》らしい男も時々巡査と話したりしていた。踏切《ふみき》り番は――保吉は踏切り番の小屋の前に菰《こも》をかけた死骸を発見した。それは嫌悪《けんお》を感じさせると同時に好奇心を感じさせるのも事実だった。菰の下からは遠目《とおめ》にも両足の靴《くつ》だけ見えるらしかった。
「死骸はあの人たちが持って行ったんです。」
 こちら側のシグナルの柱の下には鉄道|工夫《こうふ》が二三人、小さい焚火《たきび》を囲《かこ》んでいた。黄いろい炎《ほのお》をあげた焚火は光も煙も放たなかった。それだけにいかにも寒そうだった。工夫の一人はその焚火に半ズボンの尻を炙《あぶ》っていた。
 保吉は踏切りを通り越しにかかった。線路は停車場に近いため、何本も踏切りを横ぎっていた。彼はその線路を越える度に、踏切り番の轢《ひ》かれたのはどの線路だったろうと思い思いした。が、どの線路だったかは直《すぐ》に彼の目にも明らかになった。血はまだ一条の線路の上に二三分|前《まえ》の悲劇を語っていた。彼はほとんど、反射的に踏切の向う側へ目を移した。しかしそれは無効だった。冷やかに光った鉄の面《おもて》にどろりと赤いもののたまっている光景ははっと思う瞬間に、鮮《あざや》かに心へ焼きついてしまった。のみならずその血は線路の上から薄うすと水蒸気さえ昇《のぼ》らせていた。……
 十分《じっぷん》の後《のち》、保吉は停車場のプラットフォオムに落着かない歩みをつづけていた。彼の頭は今しがた見た、気味の悪い光景に一ぱいだった。殊に血から立ち昇っている水蒸気ははっきり目についていた。彼はこの間話し合った伝熱作用のことを思い出した。血の中に宿っている生命の熱は宮本の教えた法則通り、一分一厘の狂いもなしに刻薄《こくはく》に線路へ伝わっている。そのまた生命は誰のでも好《い》い、職に殉《じゅん》
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング