を物体とすれば、男も勿論物体だろう。すると恋愛は熱に当る訣《わけ》だね。今この男女を接触せしめると、恋愛の伝わるのも伝熱のように、より逆上《ぎゃくじょう》した男からより逆上していない女へ、両者の恋愛の等しくなるまで、ずっと移動をつづけるはずだろう。長谷川君の場合などは正にそうだね。……」
「そおら、はじまった。」
長谷川はむしろ嬉しそうに、擽《くすぐ》られる時に似た笑い声を出した。
「今Sなる面積を通し、T時間内に移る熱量をEとするね。すると――好《い》いかい? Hは温度、Xは熱伝導《ねつでんどう》の方面に計《はか》った距離、Kは物質により一定されたる熱伝導率だよ。すると長谷川君の場合はだね。……」
宮本は小さい黒板へ公式らしいものを書きはじめた。が、突然ふり返ると、さもがっかりしたように白墨《はくぼく》の欠《かけ》を抛《ほう》り出した。
「どうも素人《しろうと》の堀川君を相手じゃ、せっかくの発見の自慢《じまん》も出来ない。――とにかく長谷川君の許嫁《いいなずけ》なる人は公式通りにのぼせ出したようだ。」
「実際そう云う公式がありゃ、世の中はよっぽど楽になるんだが。」
保吉は長ながと足をのばし、ぼんやり窓の外の雪景色を眺めた。この物理の教官室は二階の隅に当っているため、体操器械のあるグラウンドや、グラウンドの向うの並松《なみまつ》や、そのまた向うの赤煉瓦《あかれんが》の建物を一目《ひとめ》に見渡すのも容易だった。海も――海は建物と建物との間《あいだ》に薄暗い波を煙《けむ》らせていた。
「その代りに文学者は上《あが》ったりだぜ。――どうだい、この間出した本の売れ口は?」
「不相変《あいかわらず》ちっとも売れないね。作者と読者との間には伝熱作用も起らないようだ。――時に長谷川君の結婚はまだなんですか?」
「ええ、もう一月ばかりになっているんですが、――その用もいろいろあるものですから、勉強の出来ないのに弱っています。」
「勉強も出来ないほど待ち遠しいかね。」
「宮本さんじゃあるまいし、第一|家《いえ》を持つとしても、借家《しゃくや》のないのに弱っているんです。現にこの前の日曜などにはあらかた市中を歩いて見ました。けれどもたまに明《あ》いていたと思うと、ちゃんともう約定済《やくじょうず》みになっているんですからね。」
「僕の方じゃいけないですか? 毎日学校へ通うのに汽
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