。面目《めんもく》なぞをかまっている場合じゃありません。」
「すると、英雄の器と云うのは、勘定に明いと云う事かね。」
この語《ことば》につれて、一同の口からは、静な笑い声が上った。が、呂馬通は、存外ひるまない。彼は髯から手を放すと、やや反《そ》り身になって、鼻の高い、眼光の鋭い顔を時々ちらりと眺めながら、勢いよく手真似《てまね》をして、しゃべり出した。
「いやそう云うつもりじゃないです。――項羽はですな。項羽は、今日|戦《いくさ》の始まる前に、二十八人の部下の前で『項羽を亡すものは天だ。人力の不足ではない。その証拠には、これだけの軍勢で、必ず漢の軍を三度《さんど》破って見せる』と云ったそうです。そうして、実際三度どころか、九度《くたび》も戦って勝っているです。私に云わせると、それが卑怯《ひきょう》だと思うのですな、自分の失敗を天にかずける――天こそいい迷惑です。それも烏江《うこう》を渡って、江東の健児を糾合《きゅうごう》して、再び中原《ちゅうげん》の鹿を争った後でなら、仕方がないですよ。が、そうじゃない。立派に生きられる所を、死んでいるです。私が項羽を英雄の器でないとするのは、勘定に暗かったからばかりではないです。一切を天命でごまかそうとする――それがいかんですな。英雄と云うものは、そんなものじゃないと思うです。蕭丞相《しょうじょうしょう》のような学者は、どう云われるか知らんですが。」
呂馬通は、得意そうに左右を顧みながら、しばらく口をとざした。彼の論議が、もっともだと思われたのであろう。一同は互に軽い頷きを交しながら、満足そうに黙っている。すると、その中で、鼻の高い顔だけが、思いがけなく、一種の感動を、眼の中に現した。黒い瞳が、熱を持ったように、かがやいて来たのである。
「そうかね。項羽はそんな事を云ったかね。」
「云ったそうです。」
呂馬通は、長い顔を上下に、大きく動かした。
「弱いじゃないですか。いや、少くとも男らしくないじゃないですか。英雄と云うものは、天と戦うものだろうと思うですが。」
「そうさ。」
「天命を知っても尚、戦うものだろうと思うですが。」
「そうさ。」
「すると項羽は――」
劉邦《りゅうほう》は鋭い眼光をあげて、じっと秋をまたたいている燈火《ともしび》の光を見た。そうして、半ば独り言のように、徐《おもむろ》にこう答えた。
「だから、英雄
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