日《こんにち》に至るまで、何等|断乎《だんこ》たる処置に出でられざるは……されば夫人は旧日の情夫と共に、日夜……日本人にして且|珈琲店《コーヒーてん》の給仕女たりし房子《ふさこ》夫人が、……支那人《シナじん》たる貴下のために、万斛《ばんこく》の同情無き能わず候。……今後もし夫人を離婚せられずんば、……貴下は万人の嗤笑《ししょう》する所となるも……微衷不悪《びちゅうあしからず》御推察……敬白。貴下の忠実なる友より。」
手紙は力なく陳の手から落ちた。
……陳は卓子《テーブル》に倚《よ》りかかりながら、レエスの窓掛けを洩《も》れる夕明りに、女持ちの金時計を眺めている。が、蓋の裏に彫った文字《もじ》は、房子のイニシアルではないらしい。
「これは?」
新婚後まだ何日も経たない房子は、西洋|箪笥《たんす》の前に佇《たたず》んだまま、卓子《テーブル》越しに夫へ笑顔《えがお》を送った。
「田中《たなか》さんが下すったの。御存知じゃなくって? 倉庫会社の――」
卓子《テーブル》の上にはその次に、指環の箱が二つ出て来た。白天鵞絨《しろびろうど》の蓋を明けると、一つには真珠の、他の一つには土耳古玉《トルコだま》の指環がはいっている。
「久米《くめ》さんに野村《のむら》さん。」
今度は珊瑚珠《さんごじゅ》の根懸《ねか》けが出た。
「古風だわね。久保田《くぼた》さんに頂いたのよ。」
その後から――何が出て来ても知らないように、陳はただじっと妻の顔を見ながら、考え深そうにこんな事を云った。
「これは皆お前の戦利品だね。大事にしなくちゃ済まないよ。」
すると房子は夕明りの中に、もう一度あでやかに笑って見せた。
「ですからあなたの戦利品もね。」
その時は彼も嬉しかった。しかし今は……
陳は身ぶるいを一つすると、机にかけていた両足を下した。それは卓上電話のベルが、突然彼の耳を驚かしたからであった。
「私。――よろしい。――繋《つな》いでくれ給え。」
彼は電話に向いながら、苛立《いらだ》たしそうに額の汗を拭った。
「誰?――里見探偵《さとみたんてい》事務所はわかっている。事務所の誰?――吉井《よしい》君?――よろしい。報告は?――何が来ていた?――医者?――それから?――そうかも知れない。――じゃ停車場《ていしゃば》へ来ていてくれ給え。――いや、終列車にはきっと帰るから。――間違わないように。さようなら。」
受話器を置いた陳彩《ちんさい》は、まるで放心したように、しばらくは黙然《もくねん》と坐っていた。が、やがて置き時計の針を見ると、半ば機械的にベルの鈕《ボタン》を押した。
書記の今西はその響《ひびき》に応じて、心もち明《あ》けた戸の後から、痩《や》せた半身をさし延ばした。
「今西君。鄭《てい》君にそう云ってくれ給え。今夜はどうか私の代りに、東京へ御出《おい》でを願いますと。」
陳の声はいつの間にか、力のある調子を失っていた。今西はしかし例の通り、冷然と目礼を送ったまま、すぐに戸の向うへ隠れてしまった。
その内に更紗《さらさ》の窓掛けへ、おいおい当って来た薄曇りの西日が、この部屋の中の光線に、どんよりした赤味を加え始めた。と同時に大きな蠅《はえ》が一匹、どこからここへ紛《まぎ》れこんだか、鈍《にぶ》い羽音《はおと》を立てながら、ぼんやり頬杖《ほおづえ》をついた陳のまわりに、不規則な円を描《えが》き始めた。…………
鎌倉《かまくら》。
陳彩《ちんさい》の家の客間にも、レエスの窓掛けを垂れた窓の内には、晩夏《おそなつ》の日の暮が近づいて来た。しかし日の光は消えたものの、窓掛けの向うに煙っている、まだ花盛りの夾竹桃《きょうちくとう》は、この涼しそうな部屋の空気に、快い明るさを漂《ただよ》わしていた。
壁際《かべぎわ》の籐椅子《とういす》に倚《よ》った房子《ふさこ》は、膝の三毛猫《みけねこ》をさすりながら、その窓の外の夾竹桃へ、物憂《ものう》そうな視線を遊ばせていた。
「旦那様《だんなさま》は今晩も御帰りにならないのでございますか?」
これはその側の卓子《テーブル》の上に、紅茶の道具を片づけている召使いの老女の言葉であった。
「ああ、今夜もまた寂しいわね。」
「せめて奥様が御病気でないと、心丈夫でございますけれども――」
「それでも私の病気はね、ただ神経が疲れているのだって、今日も山内《やまのうち》先生がそうおっしゃったわ。二三日よく眠りさえすれば、――あら。」
老女は驚いた眼を主人へ挙げた。すると子供らしい房子の顔には、なぜか今までにない恐怖の色が、ありありと瞳《ひとみ》に漲《みなぎ》っていた。
「どう遊ばしました? 奥様。」
「いいえ、何でもないのよ。何でもないのだけれど、――」
房子は無理に微笑しようとした。
「誰か今あす
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