は目の前の暗闇の底に、停車場からここへ来る途中の、思いがけない出来事が、もう一度はっきり見えるような気がした。
 ……枝を交《かわ》した松の下には、しっとり砂に露の下りた、細い路が続いている。大空に澄んだ無数の星も、その松の枝の重《かさ》なったここへは、滅多《めった》に光を落して来ない。が、海の近い事は、疎《まばら》な芒《すすき》に流れて来る潮風《しおかぜ》が明かに語っている。陳はさっきからたった一人、夜《よ》と共に強くなった松脂《まつやに》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を嗅ぎながら、こう云う寂しい闇の中に、注意深い歩みを運んでいた。
 その内に彼はふと足を止めると、不審そうに行く手を透《す》かして見た。それは彼の家の煉瓦塀《れんがべい》が、何歩か先に黒々と、現われて来たからばかりではない、その常春藤《きづた》に蔽《おお》われた、古風な塀の見えるあたりに、忍びやかな靴の音が、突然聞え出したからである。
 が、いくら透《すか》して見ても、松や芒の闇が深いせいか、肝腎《かんじん》の姿は見る事が出来ない。ただ、咄嗟《とっさ》に感づいたのは、その足音がこちらへ来ずに、向うへ行くらしいと云う事である。
「莫迦《ばか》な、この路を歩く資格は、おればかりにある訳じゃあるまいし。」
 陳はこう心の中に、早くも疑惑を抱き出した彼自身を叱ろうとした。が、この路は彼の家の裏門の前へ出るほかには、どこへも通じていない筈である。して見れば、――と思う刹那《せつな》に陳の耳には、その裏門の戸の開く音が、折から流れて来た潮風と一しょに、かすかながらも伝わって来た。
「可笑《おか》しいぞ。あの裏門には今朝《けさ》見た時も、錠がかかっていた筈だが。」
 そう思うと共に陳彩《ちんさい》は、獲物を見つけた猟犬《りょうけん》のように、油断なくあたりへ気を配りながら、そっとその裏門の前へ歩み寄った。が、裏門の戸はしまっている。力一ぱい押して見ても、動きそうな気色《けしき》も見えないのは、いつの間《ま》にか元の通り、錠が下りてしまったらしい。陳はその戸に倚《よ》りかかりながら、膝を埋《うず》めた芒の中に、しばらくは茫然《ぼうぜん》と佇《たたず》んでいた。
「門が明くような音がしたのは、おれの耳の迷《まよい》だったかしら。」
 が、さっきの足音は、もうどこからも聞えて来ない。常春藤《きづた》の簇《むらが》った塀の上には、火の光もささない彼の家が、ひっそりと星空に聳《そび》えている。すると陳の心には、急に悲しさがこみ上げて来た。何がそんなに悲しかったか、それは彼自身にもはっきりしない。ただそこに佇《たたず》んだまま、乏《とぼ》しい虫の音《ね》に聞き入っていると、自然と涙が彼の頬へ、冷やかに流れ始めたのである。
「房子《ふさこ》。」
 陳はほとんど呻《うめ》くように、なつかしい妻の名前を呼んだ。
 するとその途端《とたん》である。高い二階の室《へや》の一つには、意外にも眩《まぶ》しい電燈がともった。
「あの窓は、――あれは、――」
 陳は際《きわ》どい息を呑んで、手近の松の幹を捉《とら》えながら、延び上るように二階の窓を見上げた。窓は、――二階の寝室の窓は、硝子《ガラス》戸をすっかり明け放った向うに、明るい室内を覗《のぞ》かせている。そうしてそこから流れる光が、塀の内に茂った松の梢《こずえ》を、ぼんやり暗い空に漂わせている。
 しかし不思議はそればかりではない。やがてその二階の窓際には、こちらへ向いたらしい人影が一つ、朧《おぼろ》げな輪廓《りんかく》を浮き上らせた。生憎《あいにく》電燈の光が後《うしろ》にあるから、顔かたちは誰だか判然しない。が、ともかくもその姿が、女でない事だけは確かである。陳は思わず塀の常春藤《きづた》を掴《つか》んで、倒れかかる体を支えながら、苦しそうに切れ切れな声を洩らした。
「あの手紙は、――まさか、――房子だけは――」
 一瞬間の後陳彩は、安々《やすやす》塀を乗り越えると、庭の松の間をくぐりくぐり、首尾《しゅび》よく二階の真下にある、客間の窓際へ忍び寄った。そこには花も葉も露に濡れた、水々しい夾竹桃《きょうちくとう》の一むらが、………
 陳はまっ暗な外の廊下《ろうか》に、乾いた唇を噛みながら、一層|嫉妬《しっと》深い聞き耳を立てた。それはこの時戸の向うに、さっき彼が聞いたような、用心深い靴の音が、二三度|床《ゆか》に響《ひび》いたからであった。
 足響《あしおと》はすぐに消えてしまった。が、興奮した陳の神経には、ほどなく窓をしめる音が、鼓膜《こまく》を刺すように聞えて来た。その後には、――また長い沈黙があった。
 その沈黙はたちまち絞《し》め木《ぎ》のように、色を失った陳の額へ、冷たい脂汗《あぶらあせ》を絞り出した。彼は
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