も手数のかからないことです。なにしろこの国では本を造るのにただ機械の漏斗形《じょうごがた》の口へ紙とインクと灰色をした粉末とを入れるだけなのですから。それらの原料は機械の中へはいると、ほとんど五分とたたないうちに菊版《きくばん》、四六版《しろくばん》、菊半裁版《きくはんさいばん》などの無数の本になって出てくるのです。僕は瀑《たき》のように流れ落ちるいろいろの本をながめながら、反《そ》り身になった河童の技師にその灰色の粉末はなんと言うものかと尋ねてみました。すると技師は黒光りに光った機械の前にたたずんだまま、つまらなそうにこう返事をしました。
「これですか? これは驢馬《ろば》の脳髄ですよ。ええ、一度乾燥させてから、ざっと粉末にしただけのものです。時価は一|噸《とん》二三銭ですがね。」
 もちろんこういう工業上の奇蹟は書籍製造会社にばかり起こっているわけではありません。絵画製造会社にも、音楽製造会社にも、同じように起こっているのです。実際またゲエルの話によれば、この国では平均一か月に七八百種の機械が新案され、なんでもずんずん人手を待たずに大量生産が行なわれるそうです。従ってまた職工の解雇《かいこ》されるのも四五万匹を下らないそうです。そのくせまだこの国では毎朝新聞を読んでいても、一度も罷業《ひぎょう》という字に出会いません。僕はこれを妙に思いましたから、ある時またペップやチャックとゲエル家の晩餐に招かれた機会にこのことをなぜかと尋ねてみました。
「それはみんな食ってしまうのですよ。」
 食後の葉巻をくわえたゲエルはいかにも無造作《むぞうさ》にこう言いました。しかし「食ってしまう」というのはなんのことだかわかりません。すると鼻目金《はなめがね》をかけたチャックは僕の不審を察したとみえ、横あいから説明を加えてくれました。
「その職工をみんな殺してしまって、肉を食料に使うのです。ここにある新聞をごらんなさい。今月はちょうど六万四千七百六十九匹の職工が解雇《かいこ》されましたから、それだけ肉の値段も下がったわけですよ。」
「職工は黙って殺されるのですか?」
「それは騒いでもしかたはありません。職工屠殺法《しょっこうとさつほう》があるのですから。」
 これは山桃《やまもも》の鉢植《はちう》えを後ろに苦い顔をしていたペップの言葉です。僕はもちろん不快を感じました。しかし主人公のゲエルはもちろん、ペップやチャックもそんなことは当然と思っているらしいのです。現にチャックは笑いながら、あざけるように僕に話しかけました。
「つまり餓死《がし》したり自殺したりする手数を国家的に省略してやるのですね。ちょっと有毒|瓦斯《ガス》をかがせるだけですから、たいした苦痛はありませんよ。」
「けれどもその肉を食うというのは、……」
「常談《じょうだん》を言ってはいけません。あのマッグに聞かせたら、さぞ大笑いに笑うでしょう。あなたの国でも第四階級の娘たちは売笑婦になっているではありませんか? 職工の肉を食うことなどに憤慨したりするのは感傷主義ですよ。」
 こういう問答を聞いていたゲエルは手近いテエブルの上にあったサンドウィッチの皿を勧めながら、恬然《てんぜん》と僕にこう言いました。
「どうです? 一つとりませんか? これも職工の肉ですがね。」
 僕はもちろん辟易《へきえき》しました。いや、そればかりではありません。ペップやチャックの笑い声を後ろにゲエル家《け》の客間を飛び出しました。それはちょうど家々の空に星明かりも見えない荒れ模様の夜です。僕はその闇《やみ》の中を僕の住居《すまい》へ帰りながら、のべつ幕なしに嘔吐《へど》を吐きました。夜目にも白《しら》じらと流れる嘔吐を。

        九

 しかし硝子《ガラス》会社の社長のゲエルは人なつこい河童《かっぱ》だったのに違いません。僕はたびたびゲエルといっしょにゲエルの属している倶楽部《クラブ》へ行き、愉快に一晩を暮らしました。これは一つにはその倶楽部はトックの属している超人倶楽部よりもはるかに居心《いごころ》のよかったためです。のみならずまたゲエルの話は哲学者のマッグの話のように深みを持っていなかったにせよ、僕には全然新しい世界を、――広い世界をのぞかせました。ゲエルは、いつも純金の匙《さじ》に珈琲《カッフェ》の茶碗《ちゃわん》をかきまわしながら、快活にいろいろの話をしたものです。
 なんでもある霧の深い晩、僕は冬薔薇《ふゆそうび》を盛った花瓶《かびん》を中にゲエルの話を聞いていました。それはたしか部屋《へや》全体はもちろん、椅子《いす》やテエブルも白い上に細い金の縁《ふち》をとったセセッション風の部屋だったように覚えています。ゲエルはふだんよりも得意そうに顔中に微笑をみなぎらせたまま、ちょうどそのころ天下を取っていた Quorax 党内閣のことなどを話しました。クオラックスという言葉はただ意味のない間投詞《かんとうし》ですから、「おや」とでも訳すほかはありません。が、とにかく何よりも先に「河童全体の利益」ということを標榜《ひょうぼう》していた政党だったのです。
「クオラックス党を支配しているものは名高い政治家のロッペです。『正直は最良の外交である』とはビスマルクの言った言葉でしょう。しかしロッペは正直を内治《ないち》の上にも及ぼしているのです。……」
「けれどもロッペの演説は……」
「まあ、わたしの言うことをお聞きなさい。あの演説はもちろんことごとく※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》です。が、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]ということはだれでも知っていますから、畢竟《ひっきょう》正直と変わらないでしょう、それを一概に※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]と言うのはあなたがただけの偏見ですよ。我々|河童《かっぱ》はあなたがたのように、……しかしそれはどうでもよろしい。わたしの話したいのはロッペのことです。ロッペはクオラックス党を支配している、そのまたロッペを支配しているものは Pou−Fou 新聞の(この『プウ・フウ』という言葉もやはり意味のない間投詞《かんとうし》です。もし強《し》いて訳すれば、『ああ』とでも言うほかはありません。)社長のクイクイです。が、クイクイも彼自身の主人というわけにはゆきません。クイクイを支配しているものはあなたの前にいるゲエルです。」
「けれども――これは失礼かもしれませんけれども、プウ・フウ新聞は労働者の味かたをする新聞でしょう。その社長のクイクイもあなたの支配を受けているというのは、……」
「プウ・フウ新聞の記者たちはもちろん労働者の味かたです。しかし記者たちを支配するものはクイクイのほかはありますまい。しかもクイクイはこのゲエルの後援を受けずにはいられないのです。」
 ゲエルは相変わらず微笑しながら、純金の匙《さじ》をおもちゃにしています。僕はこういうゲエルを見ると、ゲエル自身を憎むよりも、プウ・フウ新聞の記者たちに同情の起こるのを感じました。するとゲエルは僕の無言にたちまちこの同情を感じたとみえ、大きい腹をふくらませてこう言うのです。
「なに、プウ・フウ新聞の記者たちも全部労働者の味かたではありませんよ。少なくとも我々河童というものはだれの味かたをするよりも先に我々自身の味かたをしますからね。……しかしさらに厄介《やっかい》なことにはこのゲエル自身さえやはり他人の支配を受けているのです。あなたはそれをだれだと思いますか? それはわたしの妻ですよ。美しいゲエル夫人ですよ。」
 ゲエルはおお声に笑いました。
「それはむしろしあわせでしょう。」
「とにかくわたしは満足しています。しかしこれもあなたの前だけに、――河童でないあなたの前だけに手放しで吹聴《ふいちょう》できるのです。」
「するとつまりクオラックス内閣はゲエル夫人が支配しているのですね。」
「さあそうも言われますかね。……しかし七年|前《まえ》の戦争などはたしかにある雌《めす》の河童のために始まったものに違いありません。」
「戦争? この国にも戦争はあったのですか?」
「ありましたとも。将来もいつあるかわかりません。なにしろ隣国のある限りは、……」
 僕は実際この時はじめて河童の国も国家的に孤立していないことを知りました。ゲエルの説明するところによれば、河童《かっぱ》はいつも獺《かわうそ》を仮設敵にしているということです。しかも獺は河童に負けない軍備を具《そな》えているということです。僕はこの獺を相手に河童の戦争した話に少なからず興味を感じました。(なにしろ河童の強敵に獺のいるなどということは「水虎考略《すいここうりゃく》」の著者はもちろん、「山島民譚集《さんとうみんたんしゅう》」の著者|柳田国男《やなぎだくにお》さんさえ知らずにいたらしい新事実ですから。)
「あの戦争の起こる前にはもちろん両国とも油断せずにじっと相手をうかがっていました。というのはどちらも同じように相手を恐怖していたからです。そこへこの国にいた獺が一匹、ある河童の夫婦を訪問しました。そのまた雌《めす》の河童というのは亭主を殺すつもりでいたのです。なにしろ亭主は道楽者でしたからね。おまけに生命保険のついていたことも多少の誘惑になったかもしれません。」
「あなたはその夫婦を御存じですか?」
「ええ、――いや、雄《おす》の河童だけは知っています。わたしの妻などはこの河童を悪人のように言っていますがね。しかしわたしに言わせれば、悪人よりもむしろ雌の河童につかまることを恐れている被害妄想《ひがいもうぞう》の多い狂人です。……そこでこの雌の河童は亭主のココアの茶碗《ちゃわん》の中へ青化加里《せいかかり》を入れておいたのです。それをまたどう間違《まちが》えたか、客の獺に飲ませてしまったのです。獺はもちろん死んでしまいました。それから……」
「それから戦争になったのですか?」
「ええ、あいにくその獺は勲章を持っていたものですからね。」
「戦争はどちらの勝ちになったのですか?」
「もちろんこの国の勝ちになったのです。三十六万九千五百匹の河童たちはそのために健気《けなげ》にも戦死しました。しかし敵国に比べれば、そのくらいの損害はなんともありません。この国にある毛皮という毛皮はたいてい獺の毛皮です。わたしもあの戦争の時には硝子《ガラス》を製造するほかにも石炭|殻《がら》を戦地へ送りました。」
「石炭殻を何にするのですか?」
「もちろん食糧にするのです。我々は、河童は腹さえ減れば、なんでも食うのにきまっていますからね。」
「それは――どうか怒《おこ》らずにください。それは戦地にいる河童たちには……我々の国では醜聞《しゅうぶん》ですがね。」
「この国でも醜聞には違いありません。しかしわたし自身こう言っていれば、だれも醜聞にはしないものです。哲学者のマッグも言っているでしょう。『汝《なんじ》の悪は汝自ら言え。悪はおのずから消滅すべし。』……しかもわたしは利益のほかにも愛国心に燃え立っていたのですからね。」
 ちょうどそこへはいってきたのはこの倶楽部《クラブ》の給仕です。給仕はゲエルにお時宜《じぎ》をした後《のち》、朗読でもするようにこう言いました。
「お宅のお隣に火事がございます。」
「火――火事!」
 ゲエルは驚いて立ち上がりました。僕も立ち上がったのはもちろんです。が、給仕は落ち着き払って次の言葉をつけ加えました。
「しかしもう消し止めました。」
 ゲエルは給仕を見送りながら、泣き笑いに近い表情をしました。僕はこういう顔を見ると、いつかこの硝子《ガラス》会社の社長を憎んでいたことに気づきました。が、ゲエルはもう今では大資本家でもなんでもないただの河童《かっぱ》になって立っているのです。僕は花瓶《かびん》の中の冬薔薇《ふゆそうび》の花を抜き、ゲエルの手へ渡しました。
「しかし火事は消えたといっても、奥さんはさぞお驚きでしょう。さあ、これを持ってお帰りなさい。」
「ありがとう。」
 ゲエルは僕の手を握りました
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