はわかりませんからね。」
「しかしあの巡査は耳があるのですか?」
「さあ、それは疑問ですね。たぶん今の旋律を聞いているうちに細君といっしょに寝ている時の心臓の鼓動でも思い出したのでしょう。」
 こういう間にも大騒ぎはいよいよ盛んになるばかりです。クラバックはピアノに向かったまま、傲然《ごうぜん》と我々をふり返っていました。が、いくら傲然としていても、いろいろのものの飛んでくるのはよけないわけにゆきません。従ってつまり二三秒置きにせっかくの態度も変わったわけです。しかしとにかくだいたいとしては大音楽家の威厳を保ちながら、細い目をすさまじくかがやかせていました。僕は――僕ももちろん危険を避けるためにトックを小楯《こだて》にとっていたものです。が、やはり好奇心に駆られ、熱心にマッグと話しつづけました。
「そんな検閲は乱暴じゃありませんか?」
「なに、どの国の検閲よりもかえって進歩しているくらいですよ。たとえば××をごらんなさい。現につい一月《ひとつき》ばかり前にも、……」
 ちょうどこう言いかけたとたんです。マッグはあいにく脳天に空罎が落ちたものですから、quack(これはただ間投詞《かんとうし》です)と一声叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました。

        八

 僕は硝子《ガラス》会社の社長のゲエルに不思議にも好意を持っていました。ゲエルは資本家中の資本家です。おそらくはこの国の河童《かっぱ》の中でも、ゲエルほど大きい腹をした河童は一匹もいなかったのに違いありません。しかし茘枝《れいし》に似た細君や胡瓜《きゅうり》に似た子どもを左右にしながら、安楽|椅子《いす》にすわっているところはほとんど幸福そのものです。僕は時々裁判官のペップや医者のチャックにつれられてゲエル家《け》の晩餐《ばんさん》へ出かけました。またゲエルの紹介状を持ってゲエルやゲエルの友人たちが多少の関係を持っているいろいろの工場も見て歩きました。そのいろいろの工場の中でもことに僕におもしろかったのは書籍製造会社の工場です。僕は年の若い河童の技師とこの工場の中へはいり、水力電気を動力にした、大きい機械をながめた時、今さらのように河童の国の機械工業の進歩に驚嘆しました。なんでもそこでは一年間に七百万部の本を製造するそうです。が、僕を驚かしたのは本の部数ではありません。それだけの本を製造するのに少しも手数のかからないことです。なにしろこの国では本を造るのにただ機械の漏斗形《じょうごがた》の口へ紙とインクと灰色をした粉末とを入れるだけなのですから。それらの原料は機械の中へはいると、ほとんど五分とたたないうちに菊版《きくばん》、四六版《しろくばん》、菊半裁版《きくはんさいばん》などの無数の本になって出てくるのです。僕は瀑《たき》のように流れ落ちるいろいろの本をながめながら、反《そ》り身になった河童の技師にその灰色の粉末はなんと言うものかと尋ねてみました。すると技師は黒光りに光った機械の前にたたずんだまま、つまらなそうにこう返事をしました。
「これですか? これは驢馬《ろば》の脳髄ですよ。ええ、一度乾燥させてから、ざっと粉末にしただけのものです。時価は一|噸《とん》二三銭ですがね。」
 もちろんこういう工業上の奇蹟は書籍製造会社にばかり起こっているわけではありません。絵画製造会社にも、音楽製造会社にも、同じように起こっているのです。実際またゲエルの話によれば、この国では平均一か月に七八百種の機械が新案され、なんでもずんずん人手を待たずに大量生産が行なわれるそうです。従ってまた職工の解雇《かいこ》されるのも四五万匹を下らないそうです。そのくせまだこの国では毎朝新聞を読んでいても、一度も罷業《ひぎょう》という字に出会いません。僕はこれを妙に思いましたから、ある時またペップやチャックとゲエル家の晩餐に招かれた機会にこのことをなぜかと尋ねてみました。
「それはみんな食ってしまうのですよ。」
 食後の葉巻をくわえたゲエルはいかにも無造作《むぞうさ》にこう言いました。しかし「食ってしまう」というのはなんのことだかわかりません。すると鼻目金《はなめがね》をかけたチャックは僕の不審を察したとみえ、横あいから説明を加えてくれました。
「その職工をみんな殺してしまって、肉を食料に使うのです。ここにある新聞をごらんなさい。今月はちょうど六万四千七百六十九匹の職工が解雇《かいこ》されましたから、それだけ肉の値段も下がったわけですよ。」
「職工は黙って殺されるのですか?」
「それは騒いでもしかたはありません。職工屠殺法《しょっこうとさつほう》があるのですから。」
 これは山桃《やまもも》の鉢植《はちう》えを後ろに苦い顔をしていたペップの言葉です。僕はもちろん不快を感じました。しかし主人公のゲ
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