中をごらんください。――」
「これはワグネルではありませんか?」
「そうです。国王の友だちだった革命家です。聖徒ワグネルは晩年には食前の祈祷《きとう》さえしていました。しかしもちろん基督教よりも生活教の信徒のひとりだったのです。ワグネルの残した手紙によれば、娑婆苦《しゃばく》は何度この聖徒を死の前に駆りやったかわかりません。」
僕らはもうその時には第六の龕《がん》の前に立っていました。
「これは聖徒ストリントベリイの友だちです。子どもの大勢ある細君の代わりに十三四のクイティの女をめとった商売人上がりの仏蘭西《フランス》の画家です。この聖徒は太い血管の中に水夫の血を流していました。が、唇《くちびる》をごらんなさい。砒素《ひそ》か何かの痕《あと》が残っています。第七の龕の中にあるのは……もうあなたはお疲れでしょう。ではどうかこちらへおいでください。」
僕は実際疲れていましたから、ラップといっしょに長老に従い、香《こう》の匂《にお》いのする廊下伝いにある部屋《へや》へはいりました。そのまた小さい部屋の隅《すみ》には黒いヴェヌスの像の下に山葡萄《やまぶどう》が一ふさ献じてあるのです。僕はなんの装飾もない僧房を想像していただけにちょっと意外に感じました。すると長老は僕の容子《ようす》にこういう気もちを感じたとみえ、僕らに椅子《いす》を薦《すす》める前に半ば気の毒そうに説明しました。
「どうか我々の宗教の生活教であることを忘れずにください。我々の神、――『生命の樹《き》』の教えは『旺盛《おうせい》に生きよ』というのですから。……ラップさん、あなたはこのかたに我々の聖書をごらんにいれましたか?」
「いえ、……実はわたし自身もほとんど読んだことはないのです。」
ラップは頭の皿《さら》を掻《か》きながら、正直にこう返事をしました。が、長老は相変わらず静かに微笑して話しつづけました。
「それではおわかりなりますまい。我々の神は一日のうちにこの世界を造りました。(『生命の樹《き》』は樹というものの、成しあたわないことはないのです。)のみならず雌《めす》の河童《かっぱ》を造りました。すると雌の河童は退屈のあまり、雄《おす》の河童を求めました。我々の神はこの嘆きを憐《あわ》れみ、雌の河童の脳髄《のうずい》を取り、雄の河童を造りました。我々の神はこの二匹の河童に『食えよ、交合せよ、旺盛《
前へ
次へ
全43ページ中34ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング