なりのピアノの音に熱心に耳を傾けていました。トックやマッグも恍惚《こうこつ》としていたことはあるいは僕よりもまさっていたでしょう。が、あの美しい(少なくとも河童《かっぱ》たちの話によれば)雌《めす》の河童だけはしっかりプログラムを握ったなり、時々さもいらだたしそうに長い舌をべろべろ出していました。これはマッグの話によれば、なんでもかれこれ十年|前《ぜん》にクラバックをつかまえそこなったものですから、いまだにこの音楽家を目の敵《かたき》にしているのだとかいうことです。
クラバックは全身に情熱をこめ、戦うようにピアノを弾《ひ》きつづけました。すると突然会場の中に神鳴りのように響き渡ったのは「演奏禁止」という声です。僕はこの声にびっくりし、思わず後ろをふり返りました。声の主は紛れもない、一番後ろの席にいる身《み》の丈《たけ》抜群の巡査です、巡査は僕がふり向いた時、悠然《ゆうぜん》と腰をおろしたまま、もう一度前よりもおお声に「演奏禁止」と怒鳴《どな》りました。それから、――
それから先は大混乱です。「警官横暴!」「クラバック、弾け! 弾け!」「莫迦《ばか》!」「畜生!」「ひっこめ!」「負けるな!」――こういう声のわき上がった中に椅子《いす》は倒れる、プログラムは飛ぶ、おまけにだれが投げるのか、サイダアの空罎《あきびん》や石ころやかじりかけの胡瓜《きゅうり》さえ降ってくるのです。僕は呆《あ》っ気《け》にとられましたから、トックにその理由を尋ねようとしました。が、トックも興奮したとみえ、椅子の上に突っ立ちながら、「クラバック、弾け! 弾け!」とわめきつづけています。のみならずトックの雌の河童もいつの間《ま》に敵意を忘れたのか、「警官横暴」と叫んでいることは少しもトックに変わりません。僕はやむを得ずマッグに向かい、「どうしたのです?」と尋ねてみました。
「これですか? これはこの国ではよくあることですよ。元来|画《え》だの文芸だのは……」
マッグは何か飛んでくるたびにちょっと頸《くび》を縮めながら、相変わらず静かに説明しました。
「元来画だの文芸だのはだれの目にも何を表わしているかはとにかくちゃんとわかるはずですから、この国では決して発売禁止や展覧禁止は行なわれません。その代わりにあるのが演奏禁止です。なにしろ音楽というものだけはどんなに風俗を壊乱する曲でも、耳のない河童に
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