り》ヶ岳《たけ》にも登っていましたから、朝霧の下《お》りた梓川の谷を案内者もつれずに登ってゆきました。朝霧の下りた梓川の谷を――しかしその霧はいつまでたっても晴れる景色《けしき》は見えません。のみならずかえって深くなるのです。僕は一時間ばかり歩いた後《のち》、一度は上高地の温泉宿へ引き返すことにしようかと思いました。けれども上高地へ引き返すにしても、とにかく霧の晴れるのを待った上にしなければなりません。といって霧は一刻ごとにずんずん深くなるばかりなのです。「ええ、いっそ登ってしまえ。」――僕はこう考えましたから、梓川の谷を離れないように熊笹《くまざさ》の中を分けてゆきました。
しかし僕の目をさえぎるものはやはり深い霧ばかりです。もっとも時々霧の中から太い毛生欅《ぶな》や樅《もみ》の枝が青あおと葉を垂《た》らしたのも見えなかったわけではありません。それからまた放牧の馬や牛も突然僕の前へ顔を出しました。けれどもそれらは見えたと思うと、たちまち濛々《もうもう》とした霧の中に隠れてしまうのです。そのうちに足もくたびれてくれば、腹もだんだん減りはじめる、――おまけに霧にぬれ透《とお》った登山服や毛布なども並みたいていの重さではありません。僕はとうとう我《が》を折りましたから、岩にせかれている水の音をたよりに梓川の谷へ下《お》りることにしました。
僕は水ぎわの岩に腰かけ、とりあえず食事にとりかかりました。コオンド・ビイフの罐《かん》を切ったり、枯れ枝を集めて火をつけたり、――そんなことをしているうちにかれこれ十分はたったでしょう。その間《あいだ》にどこまでも意地の悪い霧はいつかほのぼのと晴れかかりました。僕はパンをかじりながら、ちょっと腕|時計《どけい》をのぞいてみました。時刻はもう一時二十分過ぎです。が、それよりも驚いたのは何か気味の悪い顔が一つ、円《まる》い腕時計の硝子《ガラス》の上へちらりと影を落としたことです。僕は驚いてふり返りました。すると、――僕が河童《かっぱ》というものを見たのは実にこの時がはじめてだったのです。僕の後ろにある岩の上には画《え》にあるとおりの河童が一匹、片手は白樺《しらかば》の幹を抱《かか》え、片手は目の上にかざしたなり、珍しそうに僕を見おろしていました。
僕は呆《あ》っ気《け》にとられたまま、しばらくは身動きもしずにいました。河童もやはり驚
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