い。が、僕はいつの間にかロツクの影響を受けてしまふのだ。」
「それは君の感受性の……。」
「まあ、聞き給へ。感受性などの問題ではない。ロツクはいつも安んじてあいつだけに出来る仕事をしてゐる。しかし僕は苛《い》ら々々するのだ。それはロツクの目から見れば、或は一歩の差かも知れない。けれども僕には十|哩《マイル》も違ふのだ。」
「しかし先生の英雄曲は……」
 クラバツクは細い目を一層細め、忌々しさうにラツプを睨みつけました。
「黙り給へ。君などに何がわかる? 僕はロツクを知つてゐるのだ。ロツクに平身低頭する犬どもよりもロツクを知つてゐるのだ。」
「まあ少し静かにし給へ。」
「若し静かにしてゐられるならば、……僕はいつもかう思つてゐる。――僕等の知らない何ものかは僕を、――クラバツクを嘲る為にロツクを僕の前に立たせたのだ。哲学者のマツグはかう云ふことを何も彼も承知してゐる。いつもあの色硝子のランタアンの下に古ぼけた本ばかり読んでゐる癖に。」
「どうして?」
「この近頃マツグの書いた『阿呆の言葉』と云ふ本を見給へ。――」
 クラバツクは僕に一冊の本を渡す――と云ふよりも投げつけました。それから又腕を組んだまま、突けんどんにかう言ひ放ちました。
「ぢやけふは失敬しよう。」
 僕は悄気返《しよげかへ》つたラツプと一しよにもう一度往来へ出ることにしました。人通りの多い往来は不相変|毛生欅《ぶな》の並み木のかげにいろいろの店を並べてゐます。僕等は何と云ふこともなしに黙つて歩いて行きました。するとそこへ通りかかつたのは髪の長い詩人のトツクです。トツクは僕等の顔を見ると、腹の袋から半巾《ハンケチ》を出し、何度も額を拭ひました。
「やあ、暫らく会はなかつたね。僕はけふは久しぶりにクラバツクを尋ねようと思ふのだが、……」
 僕はこの芸術家たちを喧嘩させては悪いと思ひ、クラバツクの如何にも不機嫌だつたことを婉曲にトツクに話しました。
「さうか。ぢややめにしよう。何しろクラバツクは神経衰弱だからね。……僕もこの二三週間は眠られないのに弱つてゐるのだ。」
「どうだね、僕等と一しよに散歩をしては?」
「いや、けふはやめにしよう。おや!」
 トツクはかう叫ぶが早いか、しつかり僕の腕を掴みました。しかもいつか体中に冷や汗を流してゐるのです。
「どうしたのだ?」
「どうしたのです?」
「何、あの自動車の窓の中から緑いろの猿が一匹首を出したやうに見えたのだよ。」
 僕は多少心配になり、兎に角あの医者のチヤツクに診察して貰ふやうに勧めました。しかしトツクは何と言つても、承知する気色さへ見せません。のみならず何か疑はしさうに僕等の顔を見比べながら、こんなことさへ言ひ出すのです。
「僕は決して無政府主義者ではないよ。それだけはきつと忘れずにゐてくれ給へ。――ではさやうなら。チヤツクなどは真平御免だ。」
 僕等はぼんやり佇んだまま、トツクの後ろ姿を見送つてゐました。僕等は――いや、「僕等は」ではありません。学生のラツプはいつの間にか往来のまん中に脚をひろげ、しつきりない自動車や人通りを股目金に覗いてゐるのです。僕はこの河童も発狂したかと思ひ、驚いてラツプを引き起しました。
「常談ぢやない。何をしてゐる?」
 しかしラツプは目をこすりながら、意外にも落ち着いて返事をしました。
「いえ、余り憂鬱ですから、逆まに世の中を眺めて見たのです。けれどもやはり同じことですね。」

[#7字下げ]十一[#「十一」は中見出し]

 これは哲学者のマツグの書いた「阿呆の言葉」の中の何章かです。――
          ×
 阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じてゐる。
          ×
 我々の自然を愛するのは自然は我々を憎んだり嫉妬したりしない為もないことはない。
          ×
 最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもその又習慣を少しも破らないやうに暮らすことである。
          ×
 我々の最も誇りたいものは我々の持つてゐないものだけである。
          ×
 何びとも偶像を破壊することに異存を持つてゐるものはない。同時に又何びとも偶像になることに異存を持つてゐるものはない。しかし偶像の台座の上に安んじて坐つてゐられるものは最も神々に恵まれたもの、――阿呆か、悪人か、英雄かである。(クラバツクはこの章の上へ爪の痕をつけてゐました。)
          ×
 我々の生活に必要な思想は三千年前に尽きたかも知れない。我々は唯古い薪に新らしい炎を加へるだけであらう。
          ×
 我々の特色は我々自身の意識を超越するのを常としてゐる。
          ×
 幸福は苦痛を伴ひ、平和は倦怠を伴ふとすれば、――?
          ×
 自己を弁護することは他人を弁護することよりも困難である。疑ふものは弁護士を見よ。
          ×
 矜誇、愛慾、疑惑――あらゆる罪は三千年来、この三者から発してゐる。同時に又恐らくはあらゆる徳も。
          ×
 物質的欲望を減ずることは必しも平和を齎《もたら》さない。我々は平和を得る為には精神的欲望も減じなければならぬ。(クラバツクはこの章の上にも爪の痕を残してゐました。)
          ×
 我々は人間よりも不幸である。人間は河童ほど進化してゐない。(僕はこの章を読んだ時思はず笑つてしまひました。)
          ×
 成すことは成し得ることであり、成し得ることは成すことである。畢竟我々の生活はかう云ふ循環論法を脱することは出来ない。――即ち不合理に終始してゐる。
          ×
 ボオドレエルは白痴になつた後、彼の人生観をたつた一語に、――女陰の一語に表白した。しかし彼自身を語るものは必しもかう言つたことではない。寧ろ彼の天才に、――彼の生活を維持するに足る詩的天才に信頼した為に胃袋の一語を忘れたことである。(この章にもやはりクラバツクの爪の痕は残つてゐました。)
          ×
 若し理性に終始するとすれば、我々は当然我々自身の存在を否定しなければならぬ。理性を神にしたヴオルテエルの幸福に一生を了つたのは即ち人間の河童よりも進化してゐないことを示すものである。

[#7字下げ]十二[#「十二」は中見出し]

 或割り合に寒い午後です。僕は「阿呆の言葉」も読み飽きましたから、哲学者のマツグを尋ねに出かけました。すると或寂しい町の角に蚊のやうに痩せた河童が一匹、ぼんやり壁によりかかつてゐました。しかもそれは紛れもない、いつか僕の万年筆を盗んで行つた河童なのです。僕はしめたと思ひましたから、丁度そこへ通りかかつた、逞しい巡査を呼びとめました。
「ちよつとあの河童を取り調べて下さい。あの河童は丁度一月ばかり前にわたしの万年筆を盗んだのですから。」
 巡査は右手の棒をあげ、(この国の巡査は剣の代りに水松《いちゐ》の棒を持つてゐるのです。)「おい、君」とその河童へ声をかけました。僕は或はその河童は逃げ出しはしないかと思つてゐました。が、存外落ち着き払つて巡査の前へ歩み寄りました。のみならず腕を組んだまま、如何にも傲然と僕の顔や巡査の顔をじろじろ見てゐるのです。しかし巡査は怒りもせず、腹の袋から手帳を出して早速尋問にとりかかりました。
「お前の名は?」
「グルツク。」
「職業は?」
「つひ二三日前までは郵便配達夫をしてゐました。」
「よろしい。そこでこの人の申し立てによれば、君はこの人の万年筆を盗んで行つたと云ふことだがね。」
「ええ、一月ばかり前に盗みました。」
「何の為に?」
「子供の玩具にしようと思つたのです。」
「その子供は?」
 巡査は始めて相手の河童へ鋭い目を注ぎました。
「一週間前に死んでしまひました。」
「死亡証明書を持つてゐるかね?」
 痩せた河童は腹の袋から一枚の紙をとり出しました。巡査はその紙へ目を通すと、急ににやにや笑ひながら、相手の肩を叩きました。
「よろしい。どうも御苦労だつたね。」
 僕は呆気にとられたまま、巡査の顔を眺めてゐました。しかもそのうちに痩せた河童は何かぶつぶつ呟きながら、僕等を後ろにして行つてしまふのです。僕はやつと気をとり直し、かう巡査に尋ねて見ました。
「どうしてあの河童を掴まへないのです?」
「あの河童は無罪ですよ。」
「しかし僕の万年筆を盗んだのは……」
「子供の玩具にする為だつたのでせう。けれどもその子供は死んでゐるのです。若し何か御不審だつたら、刑法千二百八十五条をお調べなさい。」
 巡査はかう言ひすてたなり、さつさとどこかへ行つてしまひました。僕は仕かたがありませんから、「刑法千二百八十五条」を口の中に繰り返し、マツグの家へ急いで行きました。哲学者のマツグは客好きです。現にけふも薄暗い部屋には裁判官のペツプや医者のチヤツクや硝子会社の社長のゲエルなどが集り、七色の色硝子のランタアンの下に煙草の煙を立ち昇らせてゐました。そこに裁判官のペツプが来てゐたのは何よりも僕には好都合です。僕は椅子にかけるが早いか、刑法第千二百八十五条を検べる代りに早速ペツプへ問ひかけました。
「ペツプ君、甚だ失礼ですが、この国では罪人を罰しないのですか?」
 ペツプは金口の煙草の煙をまづ悠々と吹き上げてから、如何にもつまらなさうに返事をしました。
「罰しますとも。死刑さへ行はれる位ですからね。」
「しかし僕は一月ばかり前に、……」
 僕は委細を話した後、例の刑法千二百八十五条のことを尋ねて見ました。
「ふむ、それはかう云ふのです。――『如何なる犯罪を行ひたりと雖《いへど》も、該《がい》犯罪を行はしめたる事情の消失したる後は該犯罪者を処罰することを得ず』つまりあなたの場合で言へば、その河童は嘗ては親だつたのですが、今はもう親ではありませんから、犯罪も自然と消滅するのです。」
「それはどうも不合理ですね。」
「常談を言つてはいけません。親だつた[#「だつた」に傍点]河童も親である[#「である」に傍点]河童も同一に見るのこそ不合理です。さうさう、日本の法律では同一に見ることになつてゐるのですね。それはどうも我々には滑稽です。ふふふふふ、ふふふふふ。」
 ペツプは巻煙草を抛り出しながら、気のない薄笑ひを洩らしてゐました。そこへ口を出したのは法律には縁の遠いチヤツクです。チヤツクはちよつと鼻眼金を直し、かう僕に質問しました。
「日本にも死刑はありますか?」
「ありますとも。日本では絞罪です。」
 僕は冷然と構えこんだペツプに多少反感を感じてゐましたから、この機会に皮肉を浴せてやりました。
「この国の死刑は日本よりも文明的に出来てゐるでせうね?」
「それは勿論文明的です。」
 ペツプはやはり落ち着いてゐました。
「この国では絞罪などは用ひません。稀には電気を用ひることもあります。しかし大抵は電気も用ひません。唯その犯罪の名を言つて聞かせるだけです。」
「それだけで河童は死ぬのですか?」
「死にますとも。我々河童の神経作用はあなたがたのよりも微妙ですからね。」
「それは死刑ばかりではありません。殺人にもその手を使ふのがあります。――」
 社長のゲエルは色硝子の光に顔中紫に染りながら、人懐つこい笑顔をして見せました。
「わたしはこの間も或社会主義者に『貴様は盗人だ』と言はれた為に心臓痲痺を起しかかつたものです。」
「それは案外多いやうですね。わたしの知つてゐた或弁護士などはやはりその為に死んでしまつたのですからね。」
 僕はかう口を入れた河童、――哲学者のマツグをふりかへりました。マツグはやはりいつものやうに皮肉な微笑を浮かべたまま、誰の顔も見ずにしやべつてゐるのです。
「その河童は誰かに蛙だと言はれ、――勿論あなたも御承知でせう、この国で蛙だと言はれるのは人非人と云ふ意味になること位は。――己は蛙かな? 蛙ではないかな? と毎日考へてゐるうちにとうとう死んでしまつたものです。」
「それはつまり自殺ですね。」
「尤もその河童を蛙だと言
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