百円おもらい下され度《たく》、その金で「あ」の字の旦那《だんな》〔これはわたしの宿の主人です。〕のお金を使いこんだだけはまどう[#「まどう」に傍点]〔償《つぐの》う?〕ように頼み入り候。「あ」の字の旦那にはまことに、まことに面目《めんぼく》ありません。のこりの金はみなお前様のものにして下され。一人旅うき世をあとに半之丞。〔これは辞世《じせい》でしょう。〕おまつどの。」
半之丞の自殺を意外《いがい》に思ったのは「な」の字さんばかりではありません。この町の人々もそんなことは夢にも考えなかったと言うことです。若し少しでもその前に前兆《ぜんちょう》らしいことがあったとすれば、それはこう言う話だけでしょう。何《なん》でも彼岸前のある暮れがた、「ふ」の字軒の主人は半之丞と店の前の縁台《えんだい》に話していました。そこへふと通りかかったのは「青ペン」の女の一人です。その女は二人の顔を見るなり、今しがた「ふ」の字軒の屋根の上を火の玉が飛んで行ったと言いました。すると半之丞は大真面目《おおまじめ》に「あれは今おらが口から出て行っただ」と言ったそうです。自殺と言うことはこの時にもう半之丞の肚《はら》にあったのかも知れません。しかし勿論《もちろん》「青ペン」の女は笑って通り過ぎたと言うことです。「ふ」の字軒の主人も、――いや、「ふ」の字軒の主人は笑ううちにも「縁起《えんぎ》でもねえ」と思ったと言っていました。
それから幾日もたたないうちに半之丞は急に自殺したのです。そのまた自殺も首を縊《くく》ったとか、喉《のど》を突いたとか言うのではありません。「か」の字川の瀬の中に板囲《いたがこ》いをした、「独鈷《とっこ》の湯」と言う共同風呂がある、その温泉の石槽《いしぶね》の中にまる一晩沈んでいた揚句《あげく》、心臓痲痺《しんぞうまひ》を起して死んだのです。やはり「ふ」の字軒の主人の話によれば、隣《となり》の煙草屋の上《かみ》さんが一人、当夜かれこれ十二時頃に共同風呂へはいりに行きました。この煙草屋の上さんは血の道か何かだったものですから、宵のうちにもそこへ来ていたのです。半之丞はその時も温泉の中に大きな体を沈めていました。が、今もまだはいっている、これにはふだんまっ昼間《ぴるま》でも湯巻《ゆまき》一つになったまま、川の中の石伝《いしづた》いに風呂へ這《は》って来る女丈夫《じょじょうぶ》もさすがに驚いたと言うことです。のみならず半之丞は上さんの言葉にうんだともつぶれたとも返事をしない、ただ薄暗い湯気《ゆげ》の中にまっ赤になった顔だけ露《あら》わしている、それも瞬《またた》き一つせずにじっと屋根裏の電燈を眺めていたと言うのですから、無気味《ぶきみ》だったのに違いありません。上さんはそのために長湯《ながゆ》も出来ず、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》風呂を出てしまったそうです。
共同風呂のまん中には「独鈷《とっこ》の湯」の名前を生じた、大きい石の独鈷があります。半之丞はこの独鈷の前にちゃんと着物を袖《そで》だたみにし、遺書は側《そば》の下駄《げた》の鼻緒《はなお》に括《くく》りつけてあったと言うことです。何しろ死体は裸のまま、温泉の中に浮いていたのですから、若しその遺書でもなかったとすれば、恐らくは自殺かどうかさえわからずにしまったことでしょう。わたしの宿の主人の話によれば、半之丞がこう言う死にかたをしたのは苟《いやし》くも「た」の字病院へ売り渡した以上、解剖《かいぼう》用の体に傷をつけてはすまないと思ったからに違いないそうです。もっともこれがあの町の定説と言う訣《わけ》ではありません。口の悪い「ふ」の字軒の主人などは、「何、すむやすまねえじゃねえ。あれは体に傷をつけては二百|両《りょう》にならねえと思ったんです。」と大いに異説を唱《とな》えていました。
半之丞の話はそれだけです。しかしわたしは昨日《きのう》の午後、わたしの宿の主人や「な」の字さんと狭苦しい町を散歩する次手《ついで》に半之丞の話をしましたから、そのことをちょっとつけ加えましょう。もっともこの話に興味を持っていたのはわたしよりもむしろ「な」の字さんです。「な」の字さんはカメラをぶら下げたまま、老眼鏡《ろうがんきょう》をかけた宿の主人に熱心にこんなことを尋《たず》ねていました。
「じゃそのお松《まつ》と言う女はどうしたんです?」
「お松ですか? お松は半之丞の子を生んでから、……」
「しかしお松の生んだ子はほんとうに半之丞の子だったんですか?」
「やっぱり半之丞の子だったですな。瓜《うり》二つと言っても好《よ》かったですから。」
「そうしてそのお松と言う女は?」
「お松は「い」の字と言う酒屋に嫁《よめ》に行ったです。」
熱心になっていた「な」の字さんは多少失望したらしい顔をした。
「半之丞の子は?」
「連れっ子をして行ったです。その子供がまたチブスになって、……」
「死んだんですか?」
「いいや、子供は助かった代りに看病《かんびょう》したお松が患《わずら》いついたです。もう死んで十年になるですが、……」
「やっぱりチブスで?」
「チブスじゃないです。医者は何とか言っていたですが、まあ看病疲れですな。」
ちょうどその時我々は郵便局の前に出ていました。小さい日本建《にほんだて》の郵便局の前には若楓《わかかえで》が枝を伸《の》ばしています。その枝に半ば遮《さえぎ》られた、埃《ほこり》だらけの硝子《ガラス》窓の中にはずんぐりした小倉服《こくらふく》の青年が一人、事務を執《と》っているのが見えました。
「あれですよ。半之丞の子と言うのは。」
「な」の字さんもわたしも足を止めながら、思わず窓の中を覗《のぞ》きこみました。その青年が片頬《かたほお》に手をやったなり、ペンが何かを動かしている姿は妙に我々には嬉しかったのです。しかしどうも世の中はうっかり感心も出来ません、二三歩先に立った宿の主人は眼鏡《めがね》越しに我々を振り返ると、いつか薄笑いを浮かべているのです。
「あいつももう仕かたがないのですよ。『青ペン』通いばかりしているのですから。」
我々はそれから「き」の字橋まで口をきかずに歩いて行《ゆ》きました。……
[#地から1字上げ](大正十四年四月)
底本:「芥川龍之介全集6」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年3月24日第1刷発行
1993(平成5)年2月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:大野晋
1999年1月17日公開
2004年3月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング