と、何《なん》でも契約書の文面によれば、「遺族または本人の指定したるもの」に支払うことになっていました。実際またそうでもしなければ、残金二百円|云々《うんぬん》は空文《くうぶん》に了《おわ》るほかはなかったのでしょう、何しろ半之丞は妻子は勿論、親戚さえ一人《ひとり》もなかったのですから。
当時の三百円は大金《たいきん》だったでしょう。少くとも田舎大工《いなかだいく》の半之丞には大金だったのに違いありません。半之丞はこの金を握るが早いか、腕時計《うでどけい》を買ったり、背広《せびろ》を拵《こしら》えたり、「青ペン」のお松《まつ》と「お」の字町へ行ったり、たちまち豪奢《ごうしゃ》を極《きわ》め出しました。「青ペン」と言うのは亜鉛《とたん》屋根に青ペンキを塗った達磨茶屋《だるまぢゃや》です。当時は今ほど東京風にならず、軒《のき》には糸瓜《へちま》なども下っていたそうですから、女も皆|田舎《いなか》じみていたことでしょう。が、お松は「青ペン」でもとにかく第一の美人になっていました。もっともどのくらいの美人だったか、それはわたしにはわかりません。ただ鮨屋《すしや》に鰻屋《うなぎや》を兼ねた「お」の字亭のお上《かみ》の話によれば、色の浅黒い、髪の毛の縮《ちぢ》れた、小がらな女だったと言うことです。
わたしはこの婆さんにいろいろの話を聞かせて貰いました。就中《なかんずく》妙に気の毒だったのはいつも蜜柑《みかん》を食っていなければ手紙一本書けぬと言う蜜柑中毒の客の話です。しかしこれはまたいつか報告する機会を待つことにしましょう。ただ半之丞の夢中になっていたお松の猫殺しの話だけはつけ加えておかなければなりません。お松は何でも「三太《さんた》」と云う烏猫《からすねこ》を飼っていました。ある日その「三太」が「青ペン」のお上《かみ》の一張羅《いっちょうら》の上へ粗忽《そそう》をしたのです。ところが「青ペン」のお上と言うのは元来猫が嫌いだったものですから、苦情を言うの言わないのではありません。しまいには飼い主のお松にさえ、さんざん悪態《あくたい》をついたそうです。するとお松は何も言わずに「三太」を懐《ふところ》に入れたまま、「か」の字川の「き」の字橋へ行き、青あおと澱《よど》んだ淵《ふち》の中へ烏猫を抛《ほう》りこんでしまいました。それから、――それから先は誇張かも知れません。が、とにかく婆さんの話によれば、発頭人《ほっとうにん》のお上は勿論「青ペン」中《じゅう》の女の顔を蚯蚓腫《みみずば》れだらけにしたと言うことです。
半之丞の豪奢を極《きわ》めたのは精々《せいぜい》一月《ひとつき》か半月《はんつき》だったでしょう。何しろ背広は着て歩いていても、靴《くつ》の出来上って来た時にはもうその代《だい》も払えなかったそうです。下《しも》の話もほんとうかどうか、それはわたしには保証出来ません。しかしわたしの髪を刈りに出かける「ふ」の字軒の主人の話によれば、靴屋は半之丞の前に靴を並べ、「では棟梁《とうりょう》、元値《もとね》に買っておくんなさい。これが誰にでも穿《は》ける靴ならば、わたしもこんなことを言いたくはありません。が、棟梁、お前《まえ》さんの靴は仁王様《におうさま》の草鞋《わらじ》も同じなんだから」と頭を下《さ》げて頼んだと言うことです。けれども勿論半之丞は元値にも買うことは、出来なかったのでしょう。この町の人々には誰に聞いて見ても、半之丞の靴をはいているのは一度も見かけなかったと言っていますから。
けれども半之丞は靴屋の払いに不自由したばかりではありません。それから一月とたたないうちに今度はせっかくの腕時計や背広までも売るようになって来ました。ではその金はどうしたかと言えば、前後の分別《ふんべつ》も何もなしにお松につぎこんでしまったのです。が、お松も半之丞に使わせていたばかりではありません。やはり「お」の字のお上《かみ》の話によれば、元来この町の達磨茶屋《だるまぢゃや》の女は年々|夷講《えびすこう》の晩になると、客をとらずに内輪《うちわ》ばかりで三味線《しゃみせん》を弾《ひ》いたり踊ったりする、その割《わ》り前《まえ》の算段さえ一時はお松には苦しかったそうです。しかし半之丞もお松にはよほど夢中になっていたのでしょう。何しろお松は癇癪《かんしゃく》を起すと、半之丞の胸《むな》ぐらをとって引きずり倒し、麦酒罎《ビールびん》で擲《なぐ》りなどもしたものです。けれども半之丞はどう言う目に遇《あ》っても、たいていは却《かえ》って機嫌《きげん》をとっていました。もっとも前後にたった一度、お松がある別荘番の倅《せがれ》と「お」の字町へ行ったとか聞いた時には別人のように怒《おこ》ったそうです。これもあるいは幾分か誇張があるかも知れません。けれども婆《ばあ》さん
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